m_河村義子先生の歩んだ道 Feed

2019年8月20日 (火)

未来計画-8「久志能文化財団(仮称)」設立

概要

 大垣市の文化芸術活動を支援する「久志能文化財団(仮称)」を設立することが私の未来計画(夢)である。その財団を通して大垣の未来を創るため、若者を育てる文化芸術活動に、資金援助をする。

 

現状の問題点

 現在の大垣市には、芸術音楽活動を支援するシステムがない。特にこの20年弱は、小川敏市政の芸術への無知無理解で、大垣市は芸術活動の支援がなく活動が衰退した。このままでは大垣は文化芸術の不毛地帯になってしまう。小川敏市長のように、芸術が分からない人間が増えたら、日本は下品な文化の国に没落である。金勘定しか興味のない人間が増えるから、人心が荒廃し、街が寂れ、凄惨な事件が頻発する。だから大垣市は没落した。芸術活動を教養として、世界の人たちと交流をする人材を育成するのが、我々年長者の責務である。

 

大垣の歴史

 昔から大垣は文化芸術の都として栄えた。江戸末期に、藩医であった江馬蘭斎が江戸で西洋医学を学び、彼によって蘭学医術が大垣にもたらされた。それは、京都に西洋医学がもたらされるよりも早かった。それだけ当時の大垣は進歩していた。江馬蘭斎の娘・江馬細香は教養のある芸術家であった。だから幕末の思想家・頼山陽が惚れたのだ。芸術は世の中を変える。今の若者が日本と大垣の未来を背負ってくれる。年長者はせめてその支援をしたい。

 

江馬蘭斎、江馬細香に関しては、下記の記事をご参考

当ブログのカテゴリー「桜田門外ノ変の検証」

記事  「桜田門外ノ変」の検証 (20)冬夜(改定)

 

滋賀県の例

 滋賀県では、平和堂の夏原氏が創設した平和堂財団がある。その財団では、音楽芸術関係の若手を育てるプロジェクトに支援をするシステムである。それで「カナデノワコンクール」にその支援をしてもらおうと、応募方法の調査をしたら、対象は滋賀県の芸術活動に限定されていて、応募資格なしであった。それなら大垣にもその種の財団を私が作ろうと思いついた。

 故河村義子先生も、音楽活動の資金集めで苦労をされた。その苦労を若い芸術家に背負わせてはならない。

 

設立する支援財団案

 本来、大垣市が文化芸術関係の支援をしてくれれば、問題がないのだが、現在は小川敏市政の芸術への無理解の影響で、それが困難な状況である。それが18年間も続いている。前の故小倉満市長とは大違いである。芸術文化は、パトロンの支援がないとやっていけない。それはヨーロッパのルネッサンス期の状況を見ても明らかである。

 大垣でも一人の財産だけで平和堂財団相当の文化活動の支援は難しいが、多くの企業や有志が共同で資金を出し合って、同類の支援組織を作ることはできる思う。

 その財団で、毎年、芸術活動に関する活動に関する資金援助を募集する。その提案案件を、委員会で審査して、合格した活動案に50万円(仮)なり、然るべき支援金を提供する支援システムを作りたい。

 これから、私はこのプロジェクトに賛同して頂ける企業を探しに、各企業を回る計画をしている。皆さんも協賛いただける方は、金額を問わず協賛金をお願いしたい。

 

実情

 若手の育成事業のカナデノワのコンクールを開催するにも、大垣市の音楽堂を1日借りると、平日で15万円、休日なら30万円の使用料が必用となる。せめて、大垣文化事業団は、その支援だけでもしてくれるとありがたいのだが。今は、その支援がない。その他に審査員、司会者、スタッフへのお礼、賞金、パンフレット費用等でお金がかかる。入賞した子供たちに副賞のお菓子を配るにもお金がかかる。現在は、その多くがボランティア活動として無償で協力を頂いているのが実情である。

 

2019-08-20   久志能幾研究所通信No.1303  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月15日 (木)

カテゴリー追加「m_河村義子先生の歩んだ道」

 2019年8月13日、故河村義子先生の初盆に当たり、先生宅のご霊前にお参りをしてきた。ご主人とお話しをして、河村義子先生の生前を偲び、「音楽の道で、やりたいことを全てやり切って幸せだ」と言われたことを二人で思い出して、改めて感慨にふけった。4年前、義子先生がドイツ演奏旅行から帰国後「やりたいことをやり切ったので、もう死んでもいい」と言われたのを聞いた時、何を大げさなと思ったが、ご逝去後、その病気のことを知り、その言葉に納得したことを思い出した。

 このブログで、河村義子先生に関する記事を書いてきたが、先生の病気のことを知らないでよかったと思う。知っていれば、書くトーンが変わっていたと思う。

 

自分の人生に重ねて

 河村義子先生の人生を振り返り、自分の人生と重ね合わせると、私も人よりも多くの仕事の機会に恵まれ、それをやらせてもらって、幸せだと思う。日本の高度成長期、会社も儲かっていたので、やりたいことがやれた。その成果を手に入れることが出来た。バブル崩壊後に入社した若者と比較して、自分は幸せだと思う。

 定年後もほぼやりたいことやれた。会社生活の後遺症で今年癌になったが、名誉の病として誇りに思う。還暦近くで多くの仲間がこの世を去っていった。若い人も入れると一緒に仕事をした仲間の24人が世を去った。サラリーマンで中間管理職の病死は多いのだ。それだけ体を酷使して、ストレスに晒されて働いてきたのだ。私は最悪の状態の寸前で、あの世への階段を踏み止まれたのは仏様のお陰だと思う。

 

原稿

 ご主人に現在作成中の写真集「河村義子先生の歩いた道」のゲラ版を見てもらった。年末に完成予定で進めている。

 今回、その原稿の元のブログの原稿を、カテゴリー「河村義子先生の歩んだ道」に集約しました。

添付ファイル 記事リスト「河村義子先生の歩んだ道」_20190815.pdfをダウンロード

 読みたい記事は「タイトル名」「タイトル名 久志能幾」で検索してください。

 順次、カテゴリー「m_河村義子先生の歩んだ道」に集約します。現在、集約中につき1週間ほど時間猶予をください。

 

2019-08-15   久志能幾研究所通信No.1297  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月11日 (日)

第5回ナデノワのコンクール 夢と課題

 2019年8月8日、故河村義子先生が創立された第5回カナデノワのコンクールが大垣市スイトピアセンタの音楽堂で開催された。このコンクールは、若手の人材育成の場である。私は、河村義子先生を偲んで10時から17時までコンクールを視聴した。

 カナデノワのコンクールは、故河村義子先生が5年前に思いを込めて立ち上げたコンクールである。その時には、ご自身に癌が見つかり、余命5年程であることを知っておられたようだ。そのため、死後のことを考え、このプロジェクトの後継者も育成しての取り組みであった。

 カナデノワコンクールでは、河村義子先生の弟子たちが優遇されると勘違いされるのを恐れて、義子先生はこのコンクールには一度も顔を出さなれなかった。

 本来なら河村義子先生が昨年に亡くなられて、その中止が懸念されたが、審査員長で名古屋音楽大学学長の佐藤先生から助言があり、「今まで4回まで開催してきて、ここで止めるのは残念」との温かい励ましの声で継続が決まった。河村義子先生の意思を、後継者が受け継ぎ、今年の5回目の開催にこぎつかれた。

 昨年までは私はスタッフとして写真撮影を担当したが、今年は体調の都合もあり写真撮影は遠慮した。

P1120969s

 2019年8月8日 大垣市音楽堂 カナデノワコンクール

 

カナデノワとは

 「奏での輪【輪・和・羽】を意味し、アンサンブルを通して、心の・和、響の・和を大切にしながら豊かな心で大きく羽ばたいて欲しい、という願いがこめられています。

 ピアノは一人で演奏することの多い楽器ですが、連弾や歌とピアノなど、誰かと一緒に演奏することで、2倍も3倍も楽しむことができます。家族やお友達同士など音楽を愛する仲間が、ともに感じること、ともに表現することの新たな喜びを分かちあい、さらに絆を深めるきっかけとなりますように。

 HP: http://www.kanadenowa.jp

 E-mail: info@kanadenowa.jp

  カナデノワのホームページより

 

カナデノワでの協奏

 カナデノワの演奏コンクールでは、ペアで音楽を協奏する技が問われる。小さい子供から、高校生、大学生まで協演の技を競う。歌の部門では、二人で踊りながら歌ったり、先生の伴奏に合わせて歌うなど、そのハーモニーの表現はさまざまである。

 2019年の第5回のコンクールでは65人が協奏を披露した。

 

子供とのデュエットを眼で奏でる

 ピアノの先生がリードをして、小さい子とデュエットをする姿は微笑ましい。子供と先生のデュエット演奏では、やさしく子供を見守りながら演奏する先生の姿に安心して、二人の演奏を観ていられる。先生は、子供の音量、ペースに合わせて弾かないと破綻する。子供の弾く音量・音質に合わせて叩く鍵盤も加減をして音も出さねば、デュエットの意味がなくなる。主役は子供なのだ。先生が子供を見つめる目が美しい。

 同世代の仲間とピアノを弾くよりも難しかろう。子供も先生を全面的に信頼しての演奏であるが、そんなことを考えている余裕はないかもしれない。それが人生だ。師は黙って見守ってくれている。

 

掛け合いの協奏

 今回の課題曲で「とうりゃんせ」が心に響いた。小さな子供が先生と「とうりゃんせ」を歌うが如くピアノで弾き合う様は微笑ましい。聴いていて楽しくなる。

 

人生のデュエット

 世の物事は陰陽、プラスマイナス、白黒である。デュエットの演奏でも、一人が高音部をもう一人が低音部の鍵盤を担当する。当然、弾き方も違う。それが横から見ていて、二人の姿のハーモニーが美しい。それから演奏の実力がわかる。

 

ピアノの相性

 ピアノデュエットでは、一台のピアノの低音部、高音部を二人で担当して弾く場合と、2台のピアノで協奏する方式がある。今回、最後の二組が2台のピアノで協奏をした。それで驚いたのが、スタインウェイとベーゼンドルファーのピアノの協奏となったこと。設備的にスタインウェイのピアノを2台も持っているホールは皆無に近い。必然的に今あるピアノで協奏しようとすると、音楽堂のようにスタインウェイとベーゼンドルファーのメーカの異なる2台となる。しかし音色の違うピアノであるが、違和感なくその協奏が聞けて拍子抜けをした。

 後で演奏者に聞いても、二つのピアノの音色まで気を使う余裕はないとのことで、また拍子抜けした。

 

ベーゼンドルファーの選択

 今回も2台あるピアノで、ベーゼンドルファーのピアノを選択した参加者はゼロであった。昨年と同様に全員、スタインウェイのピアノを選択した。ベーゼンドルファーのピアノは、鍵盤が97鍵あるモデル290インぺリアで、横幅が普通の88鍵のピアノとは微妙に違うため、コンクールではミスタッチが怖ろしいらしく、選択が敬遠される。また音の出方が微妙に遅れるので、弾き方に習熟が求められるようだ。

 

カナデノワコンクールの

 このコンクールの視聴者が、参加者とその親御さんだけのようで、本来、もっと一般の人の参加が望まれる。浜松国際ピアノコンクールのように一般の人たちが盛り上げて、大垣のカナデノワコンクールを全国レベルのコンクールにしたいと願う。

 

カナデノワコンクールの課題

事前のPR活動不足

 今回は河村義子先生のご逝去もあり、開催できるかどうかの問題もあり、その準備が大変であった。そのため開催の案内も不十分で、その内容をもっと一般に広報すべきであったと思う。

 

協賛金の不足の課題

 こういう音楽活動には資金が必用だが、協賛金を出してくれる企業が数少ないのが大問題である。私もこのコンクールを含めて、河村義子先生主催の音楽会の協賛金を集めに走り回ったことがあるが、結局、2件で計15,000円の協賛金が集まっただけで、挫折した。資金集めに奔走された河村義子先生の苦労がしのばれる。最後は私も協賛金を提供した。

 今後、この活動をもっとPRして協賛金を集めたいと思う。

 

運営スタッフの不足

 この運営スタッフもボランティアであるが、その数も少なく、大垣市の協力があると良いと思う。

 大垣市民病院で定期的に開催されている「院内ふれあいコンサート」も当初は河村義子先生の持ち出しで孤軍奮闘して運営していたが、途中から大垣市が援助を始め、電子ピアノも購入してくれて、市役所から応援のスタッフも出してくれるようになった。感謝。

 現在は、カナデノワコンクールに大垣市からの支援が全くないに等しい。大垣の子供たちの情操教育の場であるので、市の協力が必要である。今の大垣市の文化軽視の体制では無理なのだ。それが残念だ。

P1010391s

4k8a1245s

 大垣市民病院 院内ふれあいコンサート ‎2017‎年‎6‎月‎5‎日

 バイオリンの天野千恵さんと河村義子先生

 

記念撮影の必要

 昨年は私が撮影担当であったが、今年は事情があり、撮影なしである。やはり表彰の記念撮影だけでも記録に残すべきだろう。お母さんのスマホの撮影では、後年、後悔することになるだろう。スマホのカメラと一眼レフフルサイズの比較では、画質が全然違うのだ。

 

支援と広報の課題

 こういう二人で演奏する形式のコンクールは全国でも数少ないので、これを育てていきたい。私はその支援をする予定である。

 現在は、参加者の関係者しか聴講者がいないが、もっと一般の人の参加者を増やしたい。それには広報活動と市の協力が必要だ。現在の大垣市の体制ではそれが難しいので、悩みの種である。せめて大垣財閥も資金面で協力をお願いしたい。

 

大垣の未来のために

 なぜか大垣市はこういう音楽活動の文化行事にお金を出さない。大垣市長が芸術に無理解であるためである。ノーベル賞受賞者の大村智先生は、昨年8月7日の大垣市の講演会で、哲史と山本周五郎の言葉を引用された。

「芸術を楽しむことによって、情緒が高められたり、品性が陶治される(哲史)」

「すべて芸術は人の心をたのしませ、清くし、高めるために役立つべきもの(山本周五郎)」

 大村智先生は、北里研究所病院で芸術作品を教育に活用されている事例を紹介された。この講演会の場に大垣市長も同席して、挨拶で大村先生の講演に感銘を受けたと吹聴していたが、実際の行動が大村智先生とは逆で呆れる。

 カナデノワコンクールは、ボランティア活動で、子供達の未来のための投資である。こういう文化教育の行事に、大垣市は金を出さないのは、不合理である。大垣市制100年記念事業の愚劣な行事には3億4千万円余も浪費である。そのお金には腐臭が感じられる。その使用用途と会計報告は条令でマル秘なのだ。哲史が言うように、それから見ると確かに大垣市長の品性は高くない。

P1110268s

 北里研究所病院内の芸術作品に囲まれての教育 

 2018年8月7日 大村智先生の講演スライド

 

大垣の未来演奏

 大垣市の未来のために、行政と市民が奏でる活動が、大垣の未来を創る。悲しいことだが、行政の指揮者の大垣市長が大垣市民とは遊離して、行政だけが勝手に自己満足の演奏を凶行して、暴走している。その影響で、大垣市は衰退していて消滅寸前である。小川敏市長の演奏は、あぶく銭の金切り音がやかましい行政毒奏である。新しい市長に期待をしたい。

 

2019-08-11   久志能幾研究所通信No.1292 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年6月 5日 (水)

人生の譜面をめくる佛様(改定)

 譜めくりは、黒子である。多くの譜めくりは、黒い服装をしている。舞台では決して目立たない。しかし譜めくりは、人生の陰の立役者である。それなくして、自分の人生はない。

 

譜面のめくり方

 今まで、多くの演奏家の写真撮影をしてきて、譜面めくりのやり方に、多くのやり方があったことを発見した。一番美しい姿は、そのぺージの演奏が終わる少し前に構えて、少し次のページをめくり、そのページの演奏が終わったら一気にめくる、である。

 卒業発表演奏会では、ピアニストと目で合図をしあって、お互いに、うなずいて譜面をめくっていた例もあった。そんな暇があったら、演奏に集中せよ、である。

 

小林朱音さんの場合

 大垣での音楽堂でのチェリストTIMMと河村先生の協奏(2017)、クインテッサホテルでのドレスデントリオと河村先生の協奏(2018)では、小林朱音さんが譜めくりを担当した。二人には師弟関係で、深い信頼関係があるために、そんなお互いの合図もなく、小林さんは、しかるべき時に、スーッと横に立って構え、次のページを少しめくり、そのページの演奏が終わったら一気に音もたてずめくる。河村先生は、譜面を小林さんに任せっきりで演奏に集中である。

 学生の卒業演奏会の譜めくりでは、直前に急ぎ譜面に近づき手を伸ばし、観客席にまで頁をめくる音が聞こえるようなめくり方をする人もいた。頁をめくる甲高い紙音が、美しいピアノの演奏を興ざめにした。

譜めくりが舞台から去る時

 演奏が終わると、ほとんどの譜めくりは、演奏者が観客に礼をしている間に舞台から、黒子のように静かに去っていく。これが正式のマナーのようではある。小林さんは、二人が観客の拍手に礼をしている時、小さく拍手をして、譜面を片付けて静かに舞台を去っていった。まるで黒子の佛様のような姿であった。

14k8a3347

24k8a3363

3p1020351   TIMM & 河村義子先生 

4dsc04336  ドレスデントリオ & 河村義子先生

 

人生の譜面をめくる佛様

 人の人生では、時が来ると人生の頁が自ずとめくれていき、その頁の内容に合わせて、両親や祖父祖母がランドセルの準備や学校への入学の手続きをしてくれた。当時は、それに対して感謝の念もお礼も十分ではない。今振り返ると、情けない思いである。それでも時が流れて、学校卒業までは、両親や恩師が人生の頁を黙ってめくってくれた。まるで佛様が我が人生の本の頁を捲ってくれたようだ。その佛様も、いつの間にか私の前から去っていった。「私の亡きあと、一人で人生を頑張れ」と拍手をしながら逝ってしまったのだ。

 会社生活では、必死に人生の頁を自分でめくってきたと思うが、振り返るとその歩みの頁は、佛様が事前に書いた曲を、なぞって弾いてきたように思う。自分の力ではない。周りの仲間が己の曲を演奏させてくれた。感謝。

 会社生活38年間終えたら、定年後の人生で、自分の意思で新しい第二の人生の頁をめくる時なのだ。そのぺージを自分でめくれずに、一日中、テレビの前に座っているのでは、白紙の譜面を眺めて、ピアノの前で座っているが如きである。

 

人生は暗譜演奏

 人生の人生という曲を演奏する原則は、暗譜演奏である。自分で、自分の人生の曲を描いて自分で弾く。その曲は自分が作曲した楽譜に書いてある。誰に頼るのでもなく、自分で作曲して、曲を弾かねば良き人生は創れまい。そして今は、自分が黒子として、後進の譜面をめくってあげる番なのだ。

 生きている以上は、自分独自の人生の音色を出さねばならぬ。観音菩薩様がその音を観ている。そうでないと、見守ってくれている観音菩薩様やご先祖様に申訳がない。

 

最期の譜面をめくる

 一日中、テレビの前に座っているのでは、バックグランドに無伴奏葬礼行進曲が流れなか、白紙の譜面を眺めて、無為に過ごしているようなものだ。その葬礼行進曲を演奏しているのは、一日中、何もやることのない己なのだ。「おくり人」とは、自分自身である。

 日暮れて道遠し、フィナーレは近い。演奏会と違い、人生にアンコールはない。人生二度なし。全ては一期一会だ。うかうかしていると、指の下にある次のページには、葬礼の曲が書かれているやも。人生の道を急げ。

5039a34191

6039a34461  馬場恵峰書

2019-06-05   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

2019年6月 2日 (日)

河村義子先生への弔辞(改定)

Rregret to Mrs. Yoshiko Kawamura

 2018年12月27日の故河村義子先生の葬儀で、「世界で一流の音楽を楽しむ会」事務局長田中重勝さんが弔辞を述べられた。私はそれを聴いて、初めて河村義子先生の活動の偉大さを知った。

 

功績

 河村義子先生は、ドイツのシュッツガルト弦楽六重奏団、ドレスデントリオ、チェリストTIMMとの親交があり、大垣とドイツを音楽で橋渡しをされた。義子先生は、世界レベルで大垣の文化を高めることに貢献された。

 義子先生は、戸田極子伯爵夫人の「ウィーンの六段の調べ」を舞台で再現して、大垣とウィーンの音楽交流の歴史を我々に教えてくれた。そのご縁で、私はウィーンの楽友協会を訪問して、30年前に大垣を訪問された楽友協会記録室長のビーバー・オット博士を表敬訪問することができた。

 義子先生は、カナデノワコンクール、子と音、「世界で一流の音楽を楽しむ会」、院内ふれあいコンサート、保育園コンサート等の音楽活動で、大垣の音楽文化を開拓された。義子先生は、大垣で多くの音楽遺産を築き上げ、後進を育てられた。

 

総括

 河村義子先生の戒名「聖観院教音義愛大姉」は、観音様のような眼で弟子を見守り、音楽を教えて愛のために義に奉じた、という意味である。義子先生は、人生の辛い時、雨宿りをさせてくれるような温かい人であった。この戒名は、義子先生の人生を総括した素晴らし戒名である。河村義子先生のご冥福をお祈りします。合掌。

 

 

下記は田中重勝さんの弔辞

弔辞

義子先生

 こんなにも早く、悲しい別れの言葉を述べなければならないなんて、とても残念でなりません。

大垣市スイトピアセンターの音楽堂をこよなく愛した義子先生。

私が文化事業団事務局長の時には、音楽の専門家としてサポートをお願いしたところ、快く文化事業団アドバイザーを引き受けていただきました。

 スイトピアをいつもピアノが響き渡っているところしたいとの思いに賛同していただき、ロビーでも使えるピアノを浜松へ購入に行った時は、この子が来たがっていると、小躍りするようにピアノを選定していただきました。

 また、文化ホールと音楽堂のスタウェイをオーバーホールした時には、多くの人が演奏した思い出のピアノのハンマーを皆さんにプレゼントすることを一緒に考えていただきました。大垣市民病院でも、ロビーコンサートでのピアノを購入していただくよう一緒にお願いをしてきました。どれも義子先生に選んでいただいたピアノが設置されています。

  また小さな子ども達にも本物の音楽を聞かせたいとの願いから、かすみの会の活動の一つとして保育園コンサートを続けておられたました。子ども達に夢を与えるこうした事業を文化事業団の芸術の贈り物事業として取り組む事とした時には、教え子達を次の指導者に育成するプログラムを加えるなど人材育成に余念がありませんでした。

 さらには、小さな子どもにもクラシックをとの思いから、クリスマスコンサートを音楽堂や文化ホールで行っていただきました。しかもこれまで行ったことのない飲食を伴うもので、音楽を聴いてお菓子を食べ、ジュースをのみ、また音楽やバレーを楽しむものでした。文化ホールでは、ロビーでキャラメルポップコーンを楽しむこととしたため、ロビー全体がキャラメルの匂いと子ども達の歓声に包まれることとなりました。こんな事が出来たことを楽しい思い出として何回も何回も聞かせていただきました。

  こうした子ども達を育てようという活動の中で、子と音の立ち上げ、子と音キッズへと発展させ、次の世代への橋渡しもなされてきました。

  私が文化事業団事務局長を辞したのち、世界で一流と言われた演奏家の招へいと子ども達に本物の生の演奏を聴かせたいとの願いを受けて、世界で一流の音楽を楽しむ会を立ち上げ、多くの企業の方にも応援していただいてあしながコンサートを開催してきました。このコンサート後の感想文集には、子供たちの感動があふれており、開催してよかったと一緒に喜びあいました。

 本年の2回目のコンサートでは、途中から病により入院を余儀なくされ、手術の前日で、苦しいなかでプログラムを作成していただくこととなってしまいました。しかもコンサートを聴いていただくこともできませんでした。しかし、感想文集を届けたときには本当に喜んでいただくことができ、ホットしたところです。

  先日、病室に伺ったときには、来年9月に予定の3回目のコンサートについて、輝くばかりの目でお話をいただきました。演奏者としてヘンシェルはどうかと言って、早速メールをされましたので、私は東京芸大の澤学長にプロモーションをお願いする手紙を出しました。

 でも、ヘンシェルから9月は無理で十一月ならとの返事に、それまでは私はもたない! 重勝さ―ん とメールで言ってこられた義子先生。

  あまりにも早い旅たちで驚いています。

  音楽を通して人を育てる夢に全力で立ち向かわれた義子先生。

 いま、どんな音色の中におられるのでしょうか。ブラームスと六段の調べをきいているのですか?

  多くの教え子達の心には、素晴らしい音色が刻まれ、音楽とともに生きる力が育っていくに違いありません。音楽は心の糧です。

成長する教え子の皆さんの姿を見守り続けてください。

義子先生本当にありがとう!

平成三十年十二月二十七日

世界で一流の音楽を楽しむ会

田中重勝 

 

英語でのメッセージ作成のため、見直し改定しました。

2019-06-02   久志能幾研究所 小田泰仙

KUJINOKI Institute Taisen Oda

Blog: http://yukioodaii.blog.enjoy.jp

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月25日 (土)

磨墨智417. 人を育てる

 自分の代役を育てるほど、自分の時間が豊かになることはない。理想は自分を乗り越えて自分以上に成長してくれること。そういう想いで、私は自分教育と部下教育を重視して会社生活を送ってきた。私が技術管理部の課長となってからは、技術者教育体制も整備した。問題はそれに応えてくれる部下も「上司」も少なかったこと。だから私を育ててくれた会社は市場から消えた。

 勝負の世界でも、師匠を乗り越え、師匠を打ち負かすことが恩返しなのだ。

 私が70歳を前にして思うことは、持てる智慧、知識は来世に持って行けないという焦りである。それを後世に伝えたい。せめて文書で後世に残したいと、文筆活動をしている。

 

義子先生の後継者

 河村義子先生は、残された5年という時間を意識して、後を受け継ぐ後継者を育て来た。「世界で一流の音楽を聞く会」、カナデノワコンクール、子と音、等の音楽プロジェクトを立ち上げ、それを運営してくれる人を育てて、それを見届けてからこの世を去っていった。「人を育てる」とは、素晴らしい遺産である。

 

2019-05-25   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月21日 (火)

「追悼写真集 河村義子先生」の製作に着手

 河村義子先生が2018年12月25日に亡くなられて、半年が経った。当初、もっと早く追悼写真集を出す予定であったが、私が癌で倒れ、寝込んでしまったので、最近まで取り掛かりができなかった。

 最近、やっとそれに着手する元気が出てきた。まだまだ体力的には回復せず 、まともには動けないが、編集作業ならと少しずつ取り組んでいる。

 

先生とのご縁の始まり

 私は先生が亡くなる5年前にグランドピアノを買い、義子先生からピアノを習い始め、そのご縁で義子先生の演奏活動の写真を撮り始めた。その演奏会の写真数は8,000枚ほどに達した。お弟子さんに聞くと、それ以前の写真は、スマホで撮った写真くらいしかなく、本格的な写真は皆無という。私がプロ用の機材で写真を撮り溜めたのもご縁と思う。

 撮影用カメラも、この5年でCANON7DⅡ、CANON5DⅣ、SONYα9と三代も変わった。α9は、演奏会用の無音シャッターで、暗い舞台でも撮影が可能なカメラである。演奏会を撮影するのでなければ、買わなかったご縁である。

4k8a9373s

  馬場恵峰書 人生六詞

 

ご縁

 今にして、一番脂ののった時期の義子先生の活動を撮影出来て、よきご縁であったと思う。遅からず、早からず、義子先生とご縁ができたのは、運命かもしれない。それこそ一期一会である。

 私の癌が見つかったのも、義子先生の死で、何か胸騒ぎがして検診を受けた経緯による。いわば義子先生の霊が教えてくれたと言える。もし検診があと半年遅れていれば、手遅れの恐れもあった。感謝です。

 

人生を完全燃焼

 義子先生もピアノが華やかに盛り上がった時代に、演奏家として活動できた。享年61で、見た目の若さを保ったまま、多くの人から惜しまれて亡くなられたのは、一面では幸せであった。現在は、ピアノ市場は衰退傾向である。義子先生がよぼよぼになって、往年の美しさが色あせてから亡くなられたら、こういう状況にはならなかっただろう。義子先生は、音楽で人のために役立つことを夢見て、人の2倍も3倍もの情熱をかけて、やりたいことをやり切って、命を全うされた。だから弔問客が、通夜と本葬で計1,000人を超えた。ある意味で羨ましい人生であった。私はその最盛期の記録を写真として残せたことを幸せと思う。

 私はその姿を私の母にダブらせて見ている。母は戦後、シベリア抑留から帰国した父と結婚して、裸一貫で、戦後の日本高度成長期を駆け抜けた。市内のある会社の社長から、「お前の母親は、大垣市内の社長を集めても、太刀打ちできる者はいない」と言われるほどの傑物で、その社長から一目を置かれていた。母は高度成長期、頑張ってその成果を手にして、日本経済のバブルがはじけた後、静かに世を去った。やりたいことをやり遂げた後で、幸せな人生であったと思う。

4k8a9382s

  馬場恵峰書 人生六詞

4k8a1250s

4k8a3261s

9l4a0535s

9l4a0594s

2019-05-21   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年4月27日 (土)

春風秋雨

 ああいい梅が咲いたな,明日にでも花見に行くか、と思っていたら春風が吹いて一夜で全ての花が散ってしまった。ああ美しい椿の花が咲いたな、明日にでも見にいこうかと思っていたら、夜に秋雨が降り、全て散ってしまった。

 「春風秋雨」とは,「今,ここの精神でやらないと,時間は待ってくれない」との警句である。明日があると思うな。次ぎがあると思うな。一期一会と同じ言葉でもある。

P10609341

馬場恵峰書

 

春風

 会社の組織長は、普通3年で交代の不文律がある。それでも普通はその1,2か月前に事前の話があるもの。上司から前の組織変更の話を聞いたのが、2001年4月5日(木)午前11時、実際の組織変更は、4月9日(月)からという(書類上は4月1日付)。その日の午後、私はずっと会議で、実質1日しかない慌ただしい組織変更を通告された。グループのリーダーとして、次ぎにあれもやりたい、これも段取りしようと思っていたが、メンバーとの別れは1年余で突然にやって来た。

 この組織異動の話があって、何故か昔にNHKで「家族の写真」とかのドキュメントを見た記憶が鮮明に甦った。思いついて週末に家族の写真を写真館で撮ってもらった。

 そのNHKドュメントでは、毎年家族そろっての写真を撮りつづけ、その家族の歴史を綴っていた。家族の出生や病没による増減、家族の老いなど、楽しい記録や辛い記憶などが綴られていた。私の家族を振り返ると、各個人では写真を撮っているのだが、いざ家族揃っての写真というと無いのである。カメラは持っているから、たまには撮るのだが、親が年老いてから家族揃ってというと、意外と無いことに気づいて愕然とした。父の入院の前日に、今しか撮る機会はないかもと思い、写真館に行った。今後は毎年か隔年くらいで家族揃っての写真を撮ろうと心に決めた。

 現実問題として、後からやろうとしても出来ないのだ。時間は人を待ってくれない。結局、2001年3月に撮ったこの写真が最初で最後の家族写真となってしまった。そして、この写真が父の霊前を飾った。それでも、縁ある番組との出会いで、父の元気な姿の写真が間に合って良かったとドキュメント番組の出会いに感謝している。

 

 小才は、縁に出会って、縁に気づかず。

 中才は、縁に気づいて、縁を活かさず。

 大才は、袖すり合うた縁をも活かす。   

       柳生家の家訓   柳生石舟斎

 

 今にして、父にシベリア抑留の話をもっと真剣に聞いておけばよかった後悔している。しかし、ご縁があり、丸順の今川順夫最高顧問のお話が聞ける巡り会わせを2014年8月2日に頂いた。これもみほとけからの計らいと感じている。

 

秋雨

 2018年11月17日、河村義子先生からの「退院しました。30分のレッスンを再開しました」のメールを受けた。「体調が戻られたら退院お祝いで一席を」と返信したら、12月16日になって、

「それが、、Uターンです。またお近く通られましたらのぞいてください。

 クリコン、撮影などありがとうございました。病院でもみれるようにポータブルのものを買いました! やはりまだまだブルーレイは広まってないようです。^^大垣のもの、お待ちしてます。私の自宅へおくってくださる?」

とメールがあり、その病院が先生宅の近所で、文面からそんな緊急事態とは夢想だにしていなかった。それが最後のメールとなった。

 義子先生が愛知県がんセンターを退院され、自宅静養に入られたが、華やかな先生もやつれた顔を人に見せたくはないだろうと、もう少し元気になられたらと思っているうちに、12月25日、突然の訃報である。大きな大事な花が散ってしまった。春風秋雨に茫然自失である。

 

人生の花

 自分にとって人生の花見とは何なのか。何時かと思っているうちに、いつしか歳月は過ぎ、歳をとり、病気になりガンになり、花見にも、大事の人の死に目にも会えない日がくる。

 花見より大事なことは、自分の花を咲かせることだ。その花を見ずして死ぬに死ねない。その花も一瞬には咲かない。何年もの時間をかけて、蓄えた精進があって、ある日、花が咲く。そのためには、今からでも遅くないから、思うことは始めることだ。始めないと、何事も進まない。

039a34432

 馬場恵峰書

 

『命の器で創る夢の道』 p146

2019-04-27   久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年4月21日 (日)

人格の体温測定 → 冷血人間にならない

 体の体温が1度下がると、免疫力が30%下がるという。それを知っていたから、ガン予防対策、病気対策で、毎日2回、お風呂に入っている。シャワーではなく、40度か41度のお風呂に10分~15分も浸かっている。

 冷たいものを飲むのも良くない。私はアイスコーヒーを飲まない。水も氷なしで飲んでいる。勿論、アイスクリームはご法度である。死んでもいいが?、健康管理は大事である。

 健康管理として、毎朝、体温計で体温を測り、記録することを始めた。これは血圧測定より重要である。だから入院すると必ず、朝晩、検温がある。この取り組み1か月の成果で、体温36.4 度が36.5度に上がった。わずか0.1度、されど0.1である。体温の目標値は37度である。

 4月22日の検温結果は、36.7度であった。成果あり。

 若い人や結核患者は、ガンにかからないという。それは体温が高いのでガンにならないという。低温だと病気やガンにかかりやすい。

 そうやって私は体温を上げる取り組みをしている。体が温かいと、心も豊かになる。冷え性では、幸せになれない。

 

礼状なし

 河村義子先生の音楽会やイベントの写真撮影をして、ビデオのブルーレイディスクや写真プリントを関係者に差し上げても、礼状はおろか、お礼の一つも伝えない人が多い。数十人にBDや写真プリントを差し上げても、今までお礼が来たのは、この5年間で、せいぜい2、3人である。それもほとんどが電子メールで、である。相手は貰って当然と思っているようだ。私は、彼らにとって写真撮影係の奴隷なのだ。ディスクも写真プリントの費用も、私の人件費も持ち出しである。カメラの減価償却費も半端ではない(機材総額200万円)。私は別に儲けるためにやっているわけではないので、気にはしていないが、お礼の一つもないのは、悲しい。

 それが馬場恵峰先生のお弟子さんに写真等を贈ると、全員から必ず手書きの手紙、時には毛筆の礼状が届く。それと対比すると、考えてしまう。

 それも、多くの弟子を持つ先生と言われ人でも、礼状一本、お礼一言寄こさない。病気見舞いの言葉もなく、ましてや病気見舞いなどに、来るはずがない。今まで、年賀状のついでの書き足しで、お礼がきたのが一回だけ。そんな先生に教えられる生徒たちの将来が不安である。大垣の未来の未来を背負う若者が心配だ。

葬儀の写真を贈る

 2018年12月25日の河村義子先生の葬儀の時の写真CDを、二人の先生に贈った。一人の先生の住所・氏名が分からず、名古屋ヤマハ店の人に託して、贈った。お店の人は、相手が確かに受け取ったというが、私には何の連絡もない。もう一人の先生からも、何の連絡もない。

 

義子先生が草葉の陰で泣いている

 しかし河村義子先生からは必ず、礼状とお礼の品が来た。義子先生がこの弟子たちの実態を知れば、悲しまれるだろうと思う。先生は何のためにお弟子さんたちを教育してきたのかと、その現実に嘆かれるだろう。音楽を教えるとは、人格教育の一環のはずなのだ。義子先生が草葉の陰で泣いている。

 

そんなことは私が許さない

 その昔、河村義子先生の主催するピアノ発表会で、ある人の写真を撮ってあげたが、そのデータメディアの返却がないので、義子先生にボヤいたら、「そんなことは私が許さない」と早々に相手をド叱って、相手からは慌てて礼状が来たことがある。今の状況を義子先生が知れば、「私は、そんなことは許さない」と言われるのだろう。義子先生の弟子にしては情けない状況だ。

 今までは、義子先生への恩と義理があったから、演奏会を喜んで撮影していた。しかし、義子先生が亡くなって、弟子の指導者たちの冷血な本性が明らかになったので、今後の付き合いを考え直している。

 

某音楽家の例

 懇意にしている音楽家の演奏会で、毎回、撮影を担当している。彼とカルテットを組む仲間にも、撮影・編集した写真BDを贈っているが、今だかって、誰からも礼状が来たことがない。

 

仁の村の仕打ち

 2019年1月22日、岩村に馬場恵峰先生の佐藤一斎の言葉の板書を3枚、思い込めて寄贈したが、今だ岩村から礼状は届かない。情けないことだ。寄進をして頂いた方に申し訳ない気がする。私の顔の泥を塗ったのだ。言志四録読みの言志四録しらずである。

 

人格体温測定

 私としては、BDや写真プリントを差し上げて、その反応で人格の体温を測定している。それで、今後の付き合い方を考えればよい。血の通った温かい人と付き合わないと、自分も冷血になってしまう。厚情に何も反応しないのは、冷血な「無視」なのだ。愛の反対は「憎悪」でなく、「無視」である。こちらが厚情を注いでも、相手が「無視」をするなら、付き合わない方が、お互いに幸せである。

 人が病気になっても、お見舞いどころか、見舞いの言葉一つない知人が多い。なんと冷たい人かと、その人の非常識さが分かり、初めてその人の人格の体温が判明する。これが今回、私がガンになって、周りの人の反応を見て判明したことだ。人格とは人情の温かさに比例する。

 

教師の人格教育の堕落

 2016年、母校の北高の合同同窓会があり、そこで音楽部の後輩達が、先輩の卒業後50周年を祝って歌を歌った。私はその姿を撮影して、各人の写真を印画して校長宛に送った。費用は数千円である。しかし、誰からも礼状一つ来なかった。大垣で一番の高校なのに、人格教育は校長を筆頭にして、なっていなかった。吾が母校も堕落した。

 2018年、大垣少年少女合唱団の「大垣の歌」のお披露目があり、私はその写真撮影をして、リーダの人に写真CDを贈った。しかし、何の礼状も来なかった。

 2018年、地区の敬老会で、中学校と小学校の音楽部の生徒が慰問として歌を歌った。私はその風景を撮影してリーダの先生に写真CDを贈った。何の礼状も来なかった。

 

リトマス・マフラー

 先の年末、親戚に家に行ったとき、その家にマフラーを忘れてしまった。親戚は忘れたことを知らせてくれたが、それを送り返すことはしてくれなかった。わざわざ、遠方の親戚の家まで取りに行くのも大変で、そのままにしておいた。時は冬である。この冬はマフラーなしで寒い思いをした。それでその親戚の体温の冷たさを知った。

 

日本社会の冷血化

 こんなに日本社会が劣化して、冷たくなっては、日本復興はあり得まい。何とかしたいと焦っている。日本社会の体温が下がっているのだ。社会が冷たくなれば、ガンに相当する社会の病気が蔓延する。無責任体制、拝金主義、事なかれ主義、利己主義、忘恩の人格である。だから大垣市は衰退している。これが日本全体に広がらなければと危惧している。

 余命2年の身だから、言うべきことを言っておかないと、日本のため、後進の為、悔いが残ると思い書いている。

039a32691  馬場恵峰書

 

2019-04-21   久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年4月18日 (木)

最期の贅沢 病室の選択

 2019年2月8日、愛知県がんセンターに入院した時、人生最期の贅沢として、一番価格の高い個室A室を選択した。河村義子先生もこの部屋を選ばれた。こういう場合に、良い部屋に入院しなくて、何のために今まで金を稼いできたのか、である。

 この部屋は私の体と頭の修理ドックなのだ。体を修理した後、結果が火葬場行きか、実社会への復帰かに影響する場所である。ひょっとしたら、人生の最期の場所になるかもしれない。だから病室にお金をかけても悔いはない。

 

愛知県がんセンターの病室

 個室A 32,400円  31.2㎡

 個室B   17,290円  19.6㎡

 個室C   12,420円  15.6㎡  

 個室D    7,200円   15.6㎡  

 

病室の環境

 当初は2週間の入院予定であったが、術後の経過が良くなく、一か月余の入院となり、部屋代だけで100万円近い金額になった。しかし居心地はよく、価格相当と納得して悔いはない。長い人生、一回くらいなら奮発しよう。

 なにせ、日に6度の食事・おやつが部屋に運ばれ、日に2度、美人の看護婦さんが手を握りに来てくれて(検診で)、2時間に一度、様子を見に来てくれ(死んでいないかの確認?)、夜も私が寝ていても2時間ごとに、点滴の異常がないかを見回りに来てくれる。毎日、部屋と洗面台とトイレ、風呂場の掃除をしてくれて、1週間に一度はシーツの交換と、高級ホテル並み以上である。

 ここの看護婦さんには、大変よくして頂いた。感謝です。言い換えれば、ここは病院のレクサス店であった。ある人に言わせると、大垣市民病院は、野戦病院だという。なぜか納得である。

 

ベッド

 病室のベッドは電動ベッドで、どのクラスの部屋でも大きさと内容は同じである。この病院で電動ベッドの快適さを体験して、退院後、自宅にも電動ベッドを入れた。高かったが、思えば人生の3分の1を過ごす場所である。お金をかけても無駄ではない。このベッドでなら安らかに永眠できる。人生でたった一度だけ、目が覚めないときがあるが、毎日、熟睡できる環境を整備することは、人生への投資である。

 メーカはパラマウントベッドで、業務用でしか売っていない。その分、しっかりした性能と保守体制である。他メーカのように値引きはない。

P1120302

テレビ

 部屋には50インチくらいのテレビがあったが、結局、入院中一度も電源を入れなかった。ベッドの横にも15インチほどのテレビがあったが、これも一度も使わなかった。死を意識して、死と今後の生き方を考えるとき、チャラチャラした番組など見たくもない。病室Aにテレビは不要だと思う。

 

ソファーと机

 病室Aの特徴として、ソファーと机が設備されている。私はここで、体調が回復してから読書と仕事をした。ノートパソコンを持ち込んで、ひたすら文書を書いていた。我ながら呆れたことに、外付け2テラのハードディスクを持ち込んでいた。WiFiも使えた環境であったのは幸せであった。新聞もテレビもなくても、ニュース情報は入手できたからだ。

 重要な本として、言志四録、松下幸之助発言集第一巻(全44巻の最初)を持ち込み。毎日読んでいた。

P1120305

お風呂

 部屋はお風呂付であったが、溺れ防止のためか、腰までの深さしかなく、湯につかってもお風呂に入った気がせず、お風呂に浸かったのは、1度だけで後はシャワーで済ませた。でも病室内でシャワーが使えるのは、ありがたかった。それでも手術後10日間程は点滴があるので、シャワーも使えない状態であった。

 トイレは普通のLINIXのシャワートイレであるが、前後方向のサイズが短く快適ではなかった。

P1120308

P1120307

P1120306

展望

 9階の窓からの眺めは、心を落ち着かせる癒しとなった。目の前に池があり、その横に本山の大きな墓地が見える。遠くに東山のヘリポートがあり、そこから頻繁にヘリコプターが発着していた。この場所は、名古屋空港(小牧)の航路になっているようで、旅客機がよく飛んでいた。

 毎日、この展望から空の変化を眺めて、人生を感じた。この部屋で、命の洗濯をした思いである。今まで、こんなに長時間、空を眺めて過ごしたことはない。

 河村義子先生も、どんな思いでこの景色を眺めていたかを考えると複雑な心境である。絶望され、一時、誰とも会いたくないという心境になられたとも聞いている。

   私は幸いなことに、9階の病棟の東棟に入院したこと。そのため、毎朝、朝日を浴びて起床することができた。河村義子先生が入院されたのは、同じ9階であるが、西棟である。義子先生は、夕日は拝めるが、朝日は拝めない。なにか象徴的で悲しくなった。

 

P1120314

 病室からに眺めP1060930

 馬場恵峰書

2019-04-18   久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。