2020年3月 4日 (水)

連絡 休載

身内に不幸がありましたので、1週間、ブログの更新をお休みします。

2020-03-04  小田泰仙

2020年3月 3日 (火)

迷った時の決断方法

 決断をしないのは最大の過ちである。しかし「決断をしないという決断」も大事な決断である。だから私はその決断の可否を下記の基準で決めている。

 私はまだまだ未熟で、今まで多くの判断ミスを繰り返してきて、痛い目に逢ってきた。判断を誤まって悲嘆にくれる時、多くの本を読み、そこから得た決断法のまとめが下記である。今でも全ては正しく決断出来ないが、下記は少しでも間違いの少なくなるための私の決断マニュアルである。

 

 1 宇宙根源の理にならった決断を

    枝葉末節のことで決めない

    美しい決断を(美学の追求)

    闇から光のある方向への選択を

     今が闇でも、一歩でも光のある世界に近づく選択をする。

 2 未来に重きをおいた決断を

    今はマイナスになっても、将来にプラスとなる道に

    広い道より狭き道へ(安易な道を避け)

    常にベストを求めて選択。妥協をしない。

    自分が成長できる道を選択

 3 時間に重点を置いた決断で

    努力よりも選択に時間をかけて

     間違った道で努力をしても無駄になる。

     狂った新興宗教団体でいくら努力をしても無駄である。

      最大の努力をして絞首台にのぼった若者も多い。

     それと縁を結ばないという選択と決断が重要だ。

     ブラック企業も悪縁の知人も新興宗教団体と体質は同じ。

    即決は不要だが、早い時期に決断をする。

     決断の先送りが最大の過ち。

     ひとまず決めて、間違っていれば即修正する。君子豹変。

 4 横並びよりも、自分の価値観を大事に

    仁義礼智信に叶う方向に

    人として恥ずかしくない正道を進み

    嫌われても良心に従い

    お金よりもご縁・経験・元気・報恩が得られる道を選ぶ。

 5 自利よりも利他の観点での決断を

    人生は与えたものしか返ってこない。

    世の中や人に与えても、返ってくるのはその十分の一。

              与えた分の十分の九は、人生の授業料である。

    しかし与えないと、ゼロしか返ってこない。

    それこそが、死ぬときに後悔する最大の悔いとなる。

Dsc09255s       馬場恵峰書

 

2020-03-02 久志能幾研究所通信 1497 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年3月 1日 (日)

スウェーデンから見た「飽食の国・日本」

家庭料理

 1985年8月末~12月中旬、機械の納入で4か月間スウェーデンVOLVO社に出張した。現地滞在中に数度、職場の人から、夕食に家庭に招待されたことがある。私としては晩飯を食わせてくれるというので、お花と日本のお土産を持ち、(遠来のお客さん用の豪華な食事を)期待して、タクシーを飛ばして飛んで行った。

 しかし、その晩飯は日本でのそれとは大分趣が異なっていて、戸惑ってしまった。出てきた料理は、それこそパンとチーズとハムといった極めて質素な夕食であった。そこの家の小さな子供もパン、牛乳、ジャムとヨーグルトだけの食事をしている。普通日本で、遠来の客がくるとなれば、それこそ豪華な料理でもてなしそうな風潮がある。多分私でもそうする。

 これはこの家だけの特例かと思ったが、その後数回別の家庭にも招待されたが、状況は同じであり、いつも出てくるのは質素な夕食であった。聞くところによると、これは英国でも同じ状況であるそうだ。たぶん欧州全体にあてはまるようだ。質素だから、歓迎していないのではなく、アットホーム的な歓迎で、彼らが会話を楽し んで、それがお客のもてなしであることは良く分かった。

 

パーティの場合

 ところが晩飯でなく、パーティがあるからと言われた場合は話が別で、その場合は豪華なスウェーデンのバイキング料理が並び、高級なヮインが出されることとなる。クリスマスも近い12月の日曜日、アランダー家にオルソン夫妻と一緒に招待された。その時は、高級ワインが抜かれ、奥さんの手作りのバイキング料理が所狭しと並んだ豪華なパーティであった。欧州では、晩飯とディナーとパーティの違いを認識して出掛けることが必要だと痛感した。

 

日ごろの質素な食事

 この事は、この国のほとんどが共稼ぎである事情と、楽しみの少ない厳しい冬の自然環 境においては、大きな楽しみは会話であるとの認識からきている。共稼ぎであるから、食事はできるだけ手間をかけない風潮もあるようだ。税金が高いので、共稼ぎでないとやっていけない。1994年現在、製造部長のアランダーは、1985年当時、朝 9時半頃の休憩時間にパンとチーズとコーヒだけの質素な朝食を職場で取っていた。それもその職場の半数がそうしていた。彼らは質素に生活して、会話を接客の技術として楽しむ術を知っている。我々日本人の様に、物量作戦で遠来の客人をもてなすのと、精神的なもてなしと、どちらが文化的か、本当のもてなしか、と問われると辛い返答となりそうだ。

 この家庭招待時に、アランダーの子供から日本人のお客様へ、と日本の情景を描いた絵を贈られた。そこにはエンペラーが日本刀を掲げて、日の出を背景に立っているクレヨンの絵である。こういう温かいもてなしは嬉しいものだ。たかが子供の絵ではあるが、私はこの絵を今も大事 に保管している。(次の絵)

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  贈られた絵

 

工場の社員食堂

 我々出張者は、昼食をVOLVO工場の社員食堂で取っていたが、ここで興味深い事実は、毎木曜日の昼食メニューが、大豆スープとパンケーキだけの質素な食事であることだ。日本人の味覚でなくとも、これが実に不味~い。これを彼らは黙々と食べている。「不味くないのか?」と聞いたら、「美味くはないが、食べれないほどではない」という。これはスウェーデンの伝統で、節約の精神を続けるための昔からの習慣であるそうだ。朝夕の質素な食事と比較して、日本の食卓の豪勢さを見る時、日本は贅沢な「飽食の国」だと感じた。

 

2020年の眼

 以上は1985年当時の感想であるが、現在2020年の日本社会の食文化を俯瞰すると、如何に日本が飽食の限りを尽くしているかに思い至る。この飽食・贅沢三昧が、認知症、ガン、糖尿病の増加の原因であることは明白だ。

P10702501s   馬場恵峰書

2020-03-01 久志能幾研究所通信 1496 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月29日 (土)

夢を持とう

 夢があるから理想がある。理想があるから志が生まれる。

 志があるから計画が生まれる。計画があるから行動が生まれる。

 小さな一歩一歩の行動の積み重ねで夢に近づく。

 歩みを止めなければ、何時かは夢の実現に到達する。

 夢が叶わないのは、途中で諦めるからだ。

 夢がなければ、何も始まらない。

 夢を持つか持たないかが、犬猫との差である。

 人とは霊止(ヒト)である。霊にはご先祖のDNAが伝わっている。

 そのDNAが夢の実現を応援してくれる。

 自分はご先祖の代表で今を生きているのだ。

Img_47301s   馬場恵峰書

 

ストーリとは

 夢にはストーリが必用だ。ストーリとは、自分が語る夢物語を、己と皆が信じられるようにモチベートすること。

 「宗教」も「お金」も「信用」も総てストーリでの架空の存在である。そのストーリを人々が信じるから、それが生まれ、発展して、今の文明社会が生まれた。

 例えば「宗教」も、その教祖の話を信ずれば天国に行けると信じて、その宗教に帰依する。王はそれを手段として国家を作った。人がその宗教のストーリを信じたのだ。仏教もキリスト教も同じである。オウム真理教も同じである。どんな宗教も、最初は新興宗教である。自分が教祖となり「自分教」を立ち上げよう。私はオダ仏教の教祖である。

 一万円札の「お金」は、単に日本銀行券で単なる紙切れである。日本政府が保証をするというストーリで、お金として使えるにすぎない。

 未開人や、犬猫に食べ物の代わりに一万円を与えても、喜ばない。人は「お金」というストーリを信じて、お金が存在する。だからビットコインという仮想通貨も出現してきた。

 「信用」もその人のストーリがあって、人から信用してもらえ、1億円の借金でも、それが出来る人と出来ない人とに分かれる。人がスト―リ(夢)を語れるかのレベル差である。「自分信用金庫」の格を上げよう。

 

願棒、叶針

 だから夢は大きく持とう。夢は棒ほど願って、針ほど叶う。だから大きい夢を見よう。

 夢を信じて行動できる人は幸せである。それを信じて騙された人でも、一時的に夢を見ることができた。それも幸せである。騙されたのは、自己責任である。騙された人は、人を観る眼が無かったのだ。それで良き人生の勉強ができて良いではないか。それで日本経済の活性になれば、めでたしめでたし。

 

ご真言

 オダ仏教の御真言は「自分の夢のストーリ」である。誇大妄想の夢でも、嘘八百でも、夢の真言を10,000回も自分に語り、人に語り、心で唱えれば、脳細胞が活性化して、いつかそれが真実になる。

 ご先祖が与えてくれた己の命、夢を見ない人生ではご先祖に申し訳ない。夢を見ないのでは犬猫である。せめてご先祖を超えることだけでも夢としたい。

 その夢が悪いことでなければ、お金は何とかなるものだ。オダ仏教の佛さまがきっと助けてくれる。私は、そう信じてやっている。

 

夢の世に、夢見し夢は夢ならで、夢見ぬ夢を夢とこそ知れり

 

Img_43531s  馬場恵峰書

 

2020-02-29 久志能幾研究所通信 1495 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

大垣市役所食堂のランチは、不健康品だらけ

 私は脳梗塞、心筋梗塞、認知症、癌、網膜静脈閉塞症の病気の予防のため油を使った料理は避けている。油を使った料理は高血圧症を招き、前記の病気の遠因になると確信した。それは真島消化器クリニックの真島院長の指導と私の推定からの確信による。

 真島院長の診断では、診察した当初は、脳梗塞、心筋梗塞になる危険性がかなり高い危機状態であった。私は20年来、高血圧症に苦しみ、降圧剤を服用していた。しかし真島院長の食事指導により、高血圧症が治り、現在は降圧剤の服用が不要となった。

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 上図 私の右腸骨動脈の血管の断面写真

真島消化器クリニックにて  2018年7月9日

 当初、血管内部のプラーク厚みが2.72mmもあったが、2年かけて食事療法で1.49mmまでに減少した。血圧も正常に戻った。

 

油料理

 油を使った料理は、素材の味を誤魔化し、鮮度を誤魔化し、人間の舌を麻痺させる。油料理を出せば、飲食店は儲かるが、将来に人間の体に死病を発生させる時限爆弾を提供することになる。

 私の前職の会社の食堂でも、油で揚げた食品が多かった。それが私の高血圧の原因と推定している。

 現代日本でレストランに行くと、油を使った料理の氾濫である。油を使っていない料理を探すの難しいほどである。テレビのCMでは、油を使った料理、砂糖を使った料理・菓子ばかりである。

 それが現在日本の癌の増加、認知症の増加、心筋梗塞、脳梗塞、糖尿病の増加であると私は推定している。

 私が小学生の頃の60年前は、こんなに美味しいものは氾濫していなかったし、癌も認知症も癌も脳梗塞も心筋梗塞も数が少なかった。その後の「美味しいモノ、油・砂糖・添加物を多量に使った贅沢な食事」の氾濫が現代の病気の原因だと私は推定した。

 

極楽ポイント

 だから今の私の食生活は、禁「サラダ油を使った料理」、禁「油を使って焼いた卵」、禁油脂、禁「油の乗った美味しい魚」、禁「天婦羅」、禁「お饅頭」、禁「甘いケーキ」、禁「お煎餅」、禁酒である。お煎餅も張り付き防止で油を使って焼いているからダメなのだ。それはドクターストップである。

 美味しいものには毒がある。食品メーカは、「味の極楽ポイント」の開発に余念がない。「味の極楽ポイント」とは、一度食べ始めたら、止められない、止まらないという「味」の開発である。その味には添加物がふんだんに使われている。その添加物の多くは、欧米では禁止された種類である。マーガリンもそのうちの一つである。厚生省の役人は天下り先の利権の関係で、添加物の認可が野放し状態であると推定される。

 

歴史のIF

 今の庶民の食事は、古代エジプト王のクレオパトラの食事よりも豪華なのだ。もしクレオパトラの食事が今と同じ豪華なら、美食家の彼女は肥満体になり、ジュリアス・シーザが恋に落ちることもなく、エジプトの歴史が変わっただろう。現代人は食の奴隷になっている。

 

大垣新市庁舎のランチ

 岐阜新聞のべた褒め大垣新市庁舎の食堂の記事「城望む景観も魅力 大垣市役所の食堂口コミで人気」(2020年2月16日)を見て、2020年2月27日、大垣新市庁舎の食堂に出かけて食事をしようとして、そのメニューを見て呆れた。当日の3種類のランチメニューは、全て油を使った料理で、私が食べることが出来ない種類であった。私は何も食べずに大垣市役所の食堂を後にした。

 そのランチメニューは、唐揚げ定食、味噌カツ定食、魚フライ定食、であった。

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    2020年2月27日のメニュー

 

岐阜新聞社の記事

「城望む景観も魅力 大垣市役所の食堂口コミで人気」

https://www.gifu-np.co.jp/news/20200216/20200216-215695.html

上記のリンクが切れてしまったので、下記に内容を添付します。

 1.pdfをダウンロード

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油を使った料理はご法度

 油を使って揚げれば食中毒の恐れは少なくなる。しかし油を使った料理は、素材の味を誤魔化し、鮮度を誤魔化し、人間の舌を麻痺させる。油を使った料理を出せば、原価を安くして飲食店が儲かるのだ。それは美味だが、健康を害する食品なのだ。

 大垣市は、大垣市民の健康を全く考えていない。市民の健康を食品業者に丸投げである。岐阜新聞社は、大垣市の腰巾着で大垣市の宣伝媒体である。裏でつながっているとしか思えない状況である。岐阜新聞は読者の健康のことなど知ったことではないのだ。新市庁舎と出入りの業者の宣伝に余念がない。そうすれば小川敏の覚えが良いのだと勘ぐってしまう。

 自分の健康は自分で守るしかない。

 自分の城は自分で守れ。トヨタ生産方式を創った大野耐一元副社長)

 

2020-02-28 久志能幾研究所通信 1494 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します

2020年2月27日 (木)

魔墨智◇◇ 時の積み重ね

 一瞬一瞬の積み重ねで一日になる。その一日は二度と巡ってこない。そのご縁も二度と回ってこない。ご縁も一つ一つの積み重ねで花が開き、その恩があって実を結ぶ。

 一生は平凡な毎日の積み重ねである。「積小偉大」こそ時間の大切さを含んでいる。派手な世間受けを狙った一発勝負では、人生も大垣の政治も変わらない。それでは過度に大きな加速度もお金も必用である。無為な一発勝負では、エネルギーの消費が多く、時間の無駄である。だから大垣は衰退した。他山の石とすべき事例である。

 原稿もなしに出まかせでスピーチをする政治家を私は軽蔑する。聴衆の時間(命)を食い物にしているのだ。小川敏のように。

 小さな一事、一事の積み重ねで大きなプロジェクトの成就となる。その一事に己の夢が籠る。一度に夢は叶わない。一歩一歩の前進である。千里の道も一歩から。神は細部に宿る。細部を疎かにすべからず。一瞬を疎かにすべからず。自分という人生プロジェクトを大事にしよう。だから私は時間を大切にする友を大事にしている。

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  馬場恵峰書

 

2020-02-28 久志能幾研究所通信 1493 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月26日 (水)

磨墨智116 清水の舞台から飛び降りない

 そんなことをしたら大怪我をする。それよりも、日々の小さな決断をきちんとして、やるべきことを地道に積み上げよう。そうすれば、小さな決断の積み上げで、仕事が障害なく進められる。どんなプロジェクトも小さな決断と小さな仕事量の積み重ねである。そうすれば清水寺の舞台から飛び降りるような無謀な行為は無用となる。

 

土俵のど真ん中で勝負

 どんなプロジェクトも仕事でも、土俵のど真ん中で、正々堂々と勝負をすべきである。やるべきことをさぼったため、土俵の俵際に追い詰められての決断では、リスクが大きくなる。起死回生の決断は、応急処置、対処療法である。その決断は、清水の舞台から飛び降りるが如き決断で華々しいが、失敗する確率は大きい。

 

決断にもニュートンの法則

 いつも正しく速やかに決断をして仕事が回っている状態なら、決断は常に正しく動く状態で継続される。ニュートンの第一法則である。

 日頃、やるべき決断をせず、決断が止まっている状態に陥るから(決断を先延ばし)、上司から崖から突き落とされる羽目になる。

 

物理の法則からの検証

 清水の舞台から飛び降りる決断は、無限大に近い仕事量となる。仕事量は[力]×[距離]で表される。力は[質量]×[加速度]で表される。つまり仕事量は[質量]×[加速度] ×[距離]である。

  W=Fx

  F=mα

 飛び降りた時の力は、加速度が無限大ほどに大きく、結果として、とんでもない仕事量となってしまう。つまり日頃さぼっていたことを思いついてやろうとすると、とんでもない労力が必要になる。だから清水寺の舞台から飛び降りても成果が出ない。

 日頃、地道にやるべきことをやっていれば、そんな事態にはならない。それを二宮尊徳は「積小偉大」と言った。一発勝負で、カッコいいことをやってもダメなのだ。

 

大垣市・小川敏の例

 政治家でも、一発勝負で世間受けのすることばかりする輩が多い。しかしその輩は、日頃の地道な積み上げの政治は軽視する。小川敏は、市長としてやるべき仕事をせず、市民の目を逸らすため、派手な大垣市制100周年記念行事、新市庁舎建設等で市民の目を逸らした。

 大垣市制100周年記念行事の3億5千万円の大出費は、節約第一主義のケチの小川敏にとって、窮地挽回の「清水の舞台から飛び降りる覚悟」であったはずである。大垣市制100周年記念行事経費は、90周年記念行事予算(1億1566万円)より3倍以上にも増えた。だから市長選6選を狙った行事と見てもよいだろう。小川敏は、部下が上申する予算で、前年度より増えることを極端に嫌がり、場合によってはその担当者を左遷するという噂もあるくらいだ。だからヒラメの職員は、予算を必要以上にケチり、大垣市の未来への予算を計上しない。

 ケチな小川敏として、県下一の市民負担額の新市庁舎建設も、「清水の舞台から飛び降りる」覚悟であったはずだ。しかしその結果は翌年も地価の下落である。やはり日頃の政治が大事なのだ。

 

小川敏の末路

 小川敏の19年間の無為無策、無能政治で、大垣は没落し、大垣の地価は51%暴落し、大垣駅前商店街は80%が息絶えた。過疎地との無為な合併で人口密度は半減した。大垣経済は、介護・福祉・医療産業だけが伸びて、総合的に、年率1%で衰退の一途である。交通インフラの整備が放置されたので、朝夕の交通は大渋滞である。台風がこれば、基幹道路が水没してマヒするのが頻繁である。児童生徒の一人当たりの教育費は、県下最低レベルまで削減された。それで大垣の未来が破壊された。

 

崖下に突き落とすのも愛

 決断とは迷いの時間を断ち切ること。やるべき決断をしないから、上司から崖下に突き落とされる。突き落とされるだけ、まだ救いがある。上司は温かいのだ、愛があるのだ。突き落とす上司は部下のことを思っている。

 しかし上司は部下を見限ると、相手にもしない。上司も部下を崖下に突き落とすのに大変なエネルギーがいる。上司は緻密な計算をして、心を鬼にして部下を崖下に突き落とす。

 私も会社で部下を持ったときは、助言を聞かない部下は、無視をした。そうでないと、別の成長すべき部下の育成時間が犠牲となり、組織がダメになり、上司の体がもたない。上司の時間も健康も有限である。そうしないと激務の中間管理職は命がいくつあっても足りない。愛の反対は、憎悪ではなく、「無視」なのだ。

 

求む、徳川家康

 大垣の再生には、徳川家康タイプの政治家が求められる。小川敏は明智光秀タイプの政治家のようだ。小川敏は、知識だけはあるが智慧がなく、世間わたりが下手で、一発勝負(本能寺の変)で窮地打破を目指す政治家のようだ。小川敏は、重荷を背負って遠き長い道を歩くことが出来ないのだ。

 大垣には、今から時間をかけて大垣を再生する大仕事が横たわっている。

S   馬場恵峰書

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2020-02-27 久志能幾研究所通信 1492 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月25日 (火)

新型コロナウイルスより怖しい徘徊老人

危機一髪、人を轢かずに済んだ 💛

 

 私は、夜間の車の運転は控えるようにしていた。しかし、昨夜、2020年2月24日、少し気が緩んで夕方に出かけた。帰路時は日が暮れ、自宅近辺で人を轢く寸前のヒヤリ事例に遭遇した。相手は痴呆症の徘徊老人のようだ。人を轢いて死亡事故でもなれば、私の人生が終わってしまう。死亡事故でなくても、老人のため怪我で要介護の状態になったら、相手の家族がまた大変だ。その保証も大変だ。それこそ生殺しの地獄に堕ちる。

 今、日本は認知症患者の増加とその徘徊の増大である。それを受けてオダ仏教団極楽交通省「戒厳令」を発令した(?)。認知症の氾濫は、新型コロナウイルスより危険である。私は「車での夜間外出禁止令」を自分自身に課した。

 

事故防止策

 事故防止には、夜間の運転は控えることを徹底するしかない。夜の遊びの徘徊(?)禁止である。特に、生活道路では、要注意である。

 

 事故の発生数=走行距離×事故率

 

 事故率は、夜間はその事故の発生確率が跳ね上がる。また生活道路でも、その発生確率が跳ね上がる。走行距離がゼロなら、事故はゼロである。だから夜は車で出かけてはダメなのだ。

 

ヒヤリ事例状況

 昨夜、2020年2月24日、18:25、日没直後、暗くなっていたので、私は慎重に運転をしていた。基幹道路から生活道路に入り50mも走ったところで、直前を横切る老人を発見した。私がその老人をハイビームで照らしても平然と後ろに手を組んで、悠然として歩き、そのまま道を横切って道横の自宅に入って行った。老人は私の車を全く認識していなかった。それで認知症の老人と断定した。

 最近はそういう徘徊老人が多い。昼間ならよほど早く発見できるが、夜間に闇に溶け込んで直前に車の前を横断されると、直前にならないと発見できない。

 以前に同じような状況で、この近くで人身事故を起こしたことがある。その時は、相手は黒い服装で、ヘッドフォンで音楽を聞きながら下を向いて歩いていた。相手は私が止まると思っていたようだ。私は相手が背景の暗い壁に溶け込んで、発見できなかった。

 そのため今日は夜の運転だからと、慎重に予測運転をしていたため、ヒヤリとはしたが、大事には至らなかった。

 

徘徊老人と断定

 その状況をドライブレコーダーの記録で確認してみた。相手の老人は、ヘッドライトに照らされても当方を全く認識していない行動ぶりである。まるで、さあ轢いてくれと言わんばかりである。今は、そんな老人が大手を振って徘徊している。

 日本では65歳以上の15%が認知症である。75歳以上は25%が認知症である。怖ろしい時代である。その数、602万人(2019年)。年々増加の一途である。2025年には700万人になると厚生労働省は予測している。この数値は、コロナウイルス罹患者数どころではない。

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 2020年2月25日、18:25  

 右手から横断する老人が闇に溶け込んでいる。

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 2020年2月25日、18:25  上図から1秒後

 前方に老人が道を横切っている。はっきりとは見えない。

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 2020年2月25日、18:25  上の状態から2秒後

 ヘッドライトをハイビームにして、老人が浮かび上がった。

 老人は我関せずで、後ろに手を結んで悠然と横断。

 

発見の法則

 今回のヒヤリが人身事故にならずに済んだのは、私が「極楽運転道」(『交通安全の科学』自著)「発見の確率」の法則を知っており、注意して走行したからだ。無意識に走れば、事故になったかもれない。

 

「発見の確率」

 事故防止には、事故を起こす要因・物体を、いかに早く発見するかに尽きる。そのためには「発見する確率」と「発見される確率」の向上をすればよい。なにせ、事故原因の55%が「認知の遅れ」である(1967年自動車技術会の調査データ)。このことから、事故の要因(障害物等)の認知(発見)をいかに早くするかで、事故に合う確率は激減する。認知の向上には、「発見しやすさ」と「発見されやすさ」を向上させればよい。

 「発見しやすさ」と「発見されやすさ」の確率を、1938年にローパーとハワードがドライバーの直前にダミー歩行者を飛び出させて実験してデータを得ている。実験では、何が起こるかを全く予知していない被験者が運転する車の直前に、ダミー歩行者を飛び出させて、ドライバーがそれに気づいてアクセルベダルから足を離す時点でのダミーから車までの距離を測定した。予知していれば当然視認した距離をLn 、実際にドライバーがダミー歩行者を視認した距離をNa として、〔Na /Ln 〕を横軸に、縦軸にダミー発見ドライバー数の累積頻度を図・7に図示する。これから下記のことが分かる。

 

・ダミー歩行者を予知せぬドライバーは、予知しているドライバーには見える視認距離の70%まで近づくまでは、一人もその存在に気づかない。

・50%の距離に近づくと、半分の人が気がつく。  

 予知しないドライバーが妨害物を発見する確率が50%になるのは、予知している

   ドライバーの視認距離の1/2になってから。

   つまり、意識して見れば人の2倍は見える 

・25%の距離まで近づいて、初めて全員が気がつく。

 

 予知を意識した運転とそうでない場合では、事故を起こす確率が異なるのをこのデータは証明している。

Photo

ドライバーの妨害物発見確率曲線 (V.J.ローバーTrans,IES" 1938.05

 

 また事故の大半は「衝突する相手の車を発見しなったため」に起きている。

 事故件数を違反別に分類したデータ(図⒏2)から、「安全不確認」、「脇見運転」、「一時不停止」、「動静不注視」、「漫然運転」のワースト5の合計は54.4%に達する。このワースト5こそが「不発見型」の事故である*3。

 

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  図8.3   運転者の内容別事故件数

 

2020-02-25 久志能幾研究所通信 1491 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

お礼 累計閲覧数 150,000越え

 今日、2020年2月24日、22:30ごろ、当ブログの閲覧累計数が150,000を超えました。エディオンブログでも、人気ブログランキングで6位を確保しました。皆さまの閲覧にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 

 ブログ閲覧累計数が大垣の人口を超えれば大垣が変わる、と信じて大垣行政の問題点を解析し続けてきた甲斐がありました。悪意ある妨害コメントもありましたが、今後もそれに負けないように精進していきます。

 今後も大垣を良くし、日本を良くし、皆さんの人生を良くするための情報を提供してまいります。

 

2020-02-24 久志能幾研究所通信 1490 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月23日 (日)

磨墨智89 決断できない部下は崖から突き落とそう

自分は清水寺の舞台から飛び降りよう

 

 成長する部下はそっと背中を押すだけで、自然に一歩踏み出してくれる。3分間で決断できない部下は、3年間経っても決断できない。

 ニュートンの第一法則で、止まっている部下は、永遠に止まっている。だから跳ぶのを待つのは時間の無駄である。獅子が我が子を崖下に突き落とすように、心を鬼にして優柔不断な部下を崖から突き落とそう。きっと大きく成長してはい上がってくる。人の前に克服できない障害は現れない。

 優柔不断が人生時計の針の進み方を遅くする。「遅い」というのは罪悪である。人が躊躇うしている間も、宇宙の絶対時間は冷酷に刻まれて進む。何時かは人生の最期の日が訪れる。

 

清水寺の舞台

 優柔不断な自分を、清水寺の舞台から飛び降りるように追い込もう。追い込まれれば、自分は信じがたい力が出せる。「火事場の馬鹿カ」である。「産むが安し」である。

 やってしまった後になり、何であんな些細なことに躊躇したのかと、後悔することが、この50年間でしきりである。毎日が反省の日々である。行動して失敗する後悔よりも、しないで後悔した方が、悔いは大きい。跳べなかったのは、跳べるはずがないという、オダ仏教教祖からの自己暗示に罹っていたのである。その洗脳から目を覚まして、人生の宇宙に飛び出そう。洗脳から解放され、宇宙には束縛のない無重力空間が広がる。

 

洗脳教育

 オウム真理教麻原教祖の洗脳教育で、清水寺の舞台から飛び降りるよりも恐ろしい行為をした人たちがいた。信徒は地下鉄内でサリンを撒いた。人として超えてはならぬ一線を超えた人たちだ。それほどに、洗脳教育は怖しい。

 その洗脳教育を自分のために、良いことに使おう。「自分はできない」という洗脳教育から抜け出そう。悪いことのために飛び降りるのではなく、世のために清水寺の舞台から飛び降りるなら、神仏が助けてくれる。

 

重力の壁

 ある時、アインシュタインがエリザベス女王に、「この崖から飛び降りるとどうなるでしょうか」と尋ねたことがあった。女王は、飛び降りれば死んでしまうのが当たり前なのに、変な質問ねと思ったという。アインシュタインが聞きたかったのは「飛び降りて落下の途中で、重力の影響のない世界に漂ったら、どうなるでしょう」を聞きたかったという。天才アインシュタインにとって怪我とか死は眼中になかった。

 我々は「重力」という社会の常識、慣習、掟、束縛から動けないように制限をされて生きている。我々は、それの束縛がない無重力な世界を体験すべきなのだ。世間のしがらみかを断ち切るとは、清水の舞台から飛び降りることなのだ。だから部下には、部下を支配している潜在意識の束縛から開放するため、崖から突き落とすのだ。(それは上司には快感である? 体感済)

 危機に遭遇して、自分を庇ってしまうからドツボに嵌って、益々窮地に追い込まれる。そういう時こそ、勇気を出して一歩前進である。

 

ご注意

 しかし、崖から突き落としてはいけない人がいる。全ての人がリーダになれるわけではない。メンタル的に弱い人もいる。その見極めをしないと、自分の大事な時間が無駄になる。

 

2020-02-23  久志能幾研究所通信 1489 小田泰仙

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