巡礼 玲愛、口数の少い「窓ぎわのトットちゃん」in Sagan
「玲愛 作品展 childhood」 Gallery Sagan
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黒柳徹子さんの機関銃のような喋りは、話芸の極致の芸術である。窓ぎわのトットちゃんは、金儲けのためにお喋りをしていたわけではない。感動したことを話したくて話していただけだ。それを、素直でなく、聞く耳を持たない大人が閉口しただけである。
今回の玲愛さんの展示を見て、『窓ぎわのトットちゃん』を思い出し、この考えに至り、芸術家が絵を描く理由がやっと理解できた。芸術家も絵を描きたいから画いているだけで、それを売ろうとか、誰かの賛同を得ようとか、何かを変えたいという思いはないようだ。
Saganで展示会を開いたどの画家に聞いても、「画きたいから画いている」としか、答えがない。古代の洞窟の中に素晴らしい動物画が残されている。あの絵でも売るために描いたわけではない。持てる思いを絵にしただけである。
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川原町 Gallery Saganで、「玲愛 作品展 childhood」が開催されている。それを見て、『窓ぎわ際のトットちゃん』を連想した。幼年期の初々しい思い出を人に語りたい。それを筆で表現したのが玲愛さんの絵画である。
玲愛さんの画にいわさきちひろの絵のイメージがある。彼女に聞いてみると、彼女は、いわさきちひろさんの大ファンだという。『窓ぎわのトットちゃん』の表紙はいわさきちひろの絵である。
彼女の話では、いわさきちひろ美術館は長野と東京にあるとのこと。前から一度行きたかったので、良いご縁として行こうと思う。
玲愛さんは、お喋りするエネルギーを絵に向けた。そんな印象である。その中で、玲愛さんの自画像はすこし怖いイメージである。自分を見つめる目が厳しい。それに対して、友人を描いた絵は、ほんのりとした温かさがある。凡人は、人に厳しく、自分に甘い人ばかりである。玲愛さんの絵はその逆である。限りなく人に優しいのだ。
自分を見つめる厳しい目、友人を見つめる優しい目、その目が織りなす絵に、何か惹かれる。『窓ぎわのトットちゃん』のイラストのいわさきちひろさんの絵にイメージがかぶさる。
幼年期の自画像と玲愛さん 自分を厳しく見る目
友人の顔をやさしく見つめる目
左側の絵は友人の顔、右側の絵は現在の自画像
少し大人になって冷静に自分を見つめた自画像
英語版『窓ぎわのトットちゃん』の表紙。講談社版
私は1985年、スウェーデンに出張した時、ある家庭に招待された。その折、その家の奥さんにこの本(英訳版)を贈ったら、大変喜ばれ、航空郵便で感激の礼状まで頂いた。当時は海外の知人とのやり取りは航空郵便で手書き文です。
私にとって思い出のトットちゃんである。
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芸術家への教育?
玲愛さんの絵の中に意思の強い芯を感じる。彼女が絵の先生に就いて習っていた時、その先生が、玲愛さんの描いた絵の半分を下塗りの絵の具で消してしまった。玲愛さんはそれが納得いかなかったので、また消されたと同じ絵を上から描いたという。そこに玲愛さんの強さを感じた。優しい玲愛さんは、後年、その描いた絵材が適材適所でなかったのだと納得したそうだ。
描いた絵は、個人の心の表現である。小手先の技術で表現する範囲は限られている。それを己の価値観で人に押し付けるのは、正しい師ではないと私は思う。
私の先輩の話で50年前の話だが、熱血漢の課長が部下の描いた手書きのA0の図面(当時はCADはない)が気に喰わないと、それを部下の目の前で破いてしまって、描き直しを命じたたという。図面一枚のコストは人件費を考えると、会社損害は10万円では済まない。それでも部下に指導のためには、図面を破るという行為に及んだようだ。芸術の世界とは少し違うが、部下指導では同じ考えだ。
私も宮仕え時代は、上司から色々と「指導」をされたが、意に合わないことには、反発して素直には従わなかった。それは自分の人生の生き方と反するからだ。だだし宮仕えだから、面従腹背ではある。
機械の図面作成は金儲けの世界、芸術の絵画の世界とは少し違う。何が正しい指導方なのかは、考えさせられる。私がその課長なら、それをする勇気?はない。その部下は図面を描くセンスが無かったのだろう。それが課長の逆鱗に触れた? それは人事の問題となる。センスのない人がいくら頑張っても、芸術作品はできない。それと同じである。
彫刻家の平櫛田中は、生徒に何も言わない師であった。あるとき、ある生徒がたまりかねて、自分の作品を見せて「何かご意見はないでしょうか?」と問うた。平櫛田中は少し考えて、「もう少し何とかなりませんか」と指導したそうだ。それが本当の師である。その回答は、生徒自身の中にある。上から押し付けるものではない。
自分人生キャンパス
自分の人生も同じだ。誰かの指導でそのまま人生を歩いたら、ロボットである。自分で考えて、課題に対して答えを出す。自分と言う人生キャンパスに、色彩豊かな絵を描きたい。どんな色を使っても自由である。使わないのも自由だ。色とは自分の経験・才能である。私はそういう絵を自分人生キャンパスに描きたいと、模索を続けている。その人生キャンパスに、自分が歩いてきた道が描かれる。
芸術の世界で、道なき道を切り開いている作家には、その生きざまが参考になる。私は作家にお会いする度に、いろいろとお話しを聞かせて頂いている。感謝である。
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2024-02-19 久志能幾研究所通信 2831号 小田泰仙
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