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2023年12月

2023年12月 4日 (月)

看取り士の資格を取得、死の定義

 

 2023年12月3日、私は看取り学講座の上級講座を修了し、看取り士の資格を取得した。それで職業として働くためではない。死という生の現場知識を得るためである。自分自身のためにも、家族の為にも良かったと思う。

看取り士は観音菩薩、死をプロデュースする

http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2023/07/post-bbed.html

 

紹介「看取り士養成講座」 - 久志能幾研究所通信

http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2023/07/post-3fff.html

 

人生の最重要で最期のセレモニー

 今回、看取り士の資格を受講して、必ず訪れる「死」への準備として、看取り士の知識を得られた。それは人にも薦められる講座である。

 何事もリハーサルが必要である。死は人生で最大で最後のセレモニーである。いわば人生の卒業式である。それを自分の目で確認し、模擬体験として行い、その内容を体で完全に理解する。それこそが現地現物である(トヨタ生産システム)。

 

ご縁の賜物

 今回はたまたまご縁があり、私の飛行機好きを知る看取り士の方から、岐阜自衛隊飛行場祭の前日リハーサルへのご招待があった。その「餌」?に釣られての受講であった(笑)。ご縁として結果オーライで、良かったと思う。

 そのきっかけは私の大垣市政への不満であり、そのご縁で市会議員選挙のお手伝いをすることになり、そこで看取り士さんと巡り合ったというご縁である。私は「来たご縁は拒まず」「気になることはやってみよう」という人生哲学である。

 

医学的な死 

 今回の最大の収穫は、死の定義である。我々が知らされる「死」は医学的な死であって、本当の死ではない。

 生物としての死の定義は、時代、地域により異なる。看取り学講座の知識からではなく、今までの通俗的、経験的な事例から明らかになっている。

 

 医学的、社会的に人間の死を何処かで線引きしないと、社会の運営が成立しない。今の死の定義は、あくまで人間の勝手な取り決めである。それは臓器移植、終末医療の停止の線引き、金儲けに関係している。あくまで心肺停止、瞳の反応ゼロで死と判定しているだけである。

 しかし組織の50.01%が死んで、医師が死を判定しても、まだ組織の49.99%は生きている。体が生体反応をしないだけで、半分近くの組織はまだ生きている。それを死としてよいのか。聴覚は医学的な死後、数時間はまだ聞こえているという。

 

生物としての死

 終末医療を調べて分かったことは、人の死の直前の1年程は、段々と食が細くなり、痩せていくということだ(東京有明医療大学の川上嘉明教授の研究で)。そしてBMIが12を切ると急激に衰弱して死に向かう。

 その時は、いくら食べさせても、栄養素も水も受け付けなくなる。食欲もなくなる。その時に無理やり栄養剤を注入し、水を補給しても、体が受け付けない。老化して機能が低下した腎臓は、処理能力以上に体内に入ってきたの水を処理できなくなり、肺や血管等の臓器に水があふれ肺水腫等になる。

 このように無理やり水分を入れると、体重増加による、むくみ・呼吸困難・血圧上昇などの症状が現れ、心不全や肺水腫などの原因になる。その医療行為は死にゆく人には拷問のようになる。

 だから自然に任せて、枯れ木が自然に倒れるようにすることが宇宙根源の理にかなっている。枯れるように死ぬときは、神経も老化して鈍くなっているから苦しくない。それがあるべき穏やかな死である。それが生命を終える時の理想のソフトランディングである。その時に寄り添って、魂に安心を与え、安らか逝けるようお手伝いするのが、看取り士である。

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注) BMI=[体重]÷(身長)^2         身長はメートル単位

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  晩年の栄養量と体格指数(BMI)の関係

          (C)日刊ゲンダイ より引用

「老衰死」は数年前に予測できる?|日刊ゲンダイヘルスケア (nikkan-gendai.com)

https://hc.nikkan-gendai.com/articles/201981

 

日本古来の死の定義

 医学的な死は、我々が先祖代々で感じている死とは別である。我々日本人が先祖代々、伝えてきた伝統では、死後7日間はまだ生きているとして、自宅に寝かせて生前と同じように接する。どうもそれが正しいようだ。

 

人間としてのお別れ

 死後24時間は、まだ体は温かい。聴覚はまだ生きているようだ。故人の体に触れて、その温もりを感じ、故人との最後のお別れをするのが看取り学の作法である。だから看取り学では、死後24時間は、ドライアイスを入れないように葬儀屋に依頼する。遠方でも日本国内なら、24時間以内ならどこからでも、現地にたどり着けて、故人の温かい体に触れてお別れが出来る。

 

 ところが病院で死の場合、医師が死亡判定すると、家族との最後のお別れが慌ただしくさせられ、すぐ霊安室に運ばれドライアイスが入れられる。それで体が急速に冷たくなる。それで不可逆的な状態になり、本当の死となる。それでは臨終の場に間に合わない人は、遺体に触れてのお別れが出来ない。

 

大事な人とのお別れ

 大事な人とのお別れが、正しく、悔い無く、感謝して出来るような知識を得られた。もっと早く知っていれば、両親や多くの師の臨終に、正しく立ち会えたと思うとすこし悔いがある。しかしそれもご縁である。人間的な成長で、やっとこの歳でそれが分かるご縁を頂いたのだ、と思う。70にして69の非を知る、である。

 

馬場恵峰先生の事例

 馬場恵峰先生が2021年1月1日に亡くなられた。新潟の水谷社長は、その知らせを受けて、新潟から長崎まで(鉄路で1,600㎞)、高速道路を車で飛ばして、弔問に行かれた。所要時間約16時間以上と推定。当日は近来まれにみる大雪で、日本海側の高速道路を走れず、東京経由の高速道路を走ったという。

 水谷社長氏は、死後の先生の顔を見て、体に触り、声をかけて最後のお別れをされたようだ。そしてそのまま新潟にトンボ帰りをした。氏によれば「医師が死亡宣告をしても、まだ24時間は生きていると同じ」と言っておられた。それを思い出した。改めてM氏に畏敬の念を抱いた。

 それなら私も岐阜から長崎に飛んでいけばよかったと今にして思う。それもご縁である。そういう「縁が無かったと言う縁」である。まだまだ当時の私は人間的に未熟だったのだろう。

 

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 春風のようないい人に出会えたな、よい風が吹いたなと思ったら、もう秋がきて、別れの雨が降り、美しい花が散っていく。人生は春夏秋冬、春風秋雨である。


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 馬場恵峰書

  馬場恵峰先生は、最期まで現役であった。生前も全てを受け入れ、命を全うし、穏やかな死であった。94歳の天寿を全うされた。

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2023-12-04  久志能幾研究所通信 2782号  小田泰仙

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2023年12月 2日 (土)

志を持て!龍になれ 孤龍興雨 in Sagan

 

 岐阜市川原町 Gallery Sagan で辰を特集した「辰づくし展」が開催されている(12月1日~12月26日)。その龍たちを見て、下記の感想を持った。

 龍は架空の動物である。その架空の動物をいかに本物の生きもののように表現するかで、芸術家の力量が問われる。各作品をそういう目で見ると、興味深い。

 龍は縁起物である。来年は辰年である。この展示を見て、龍になる勇気をもらった。

 公開

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志は龍になる 

 高い志を持って行動すれば、同志は自然に集まってくる。最初は一人で始めた行動でも、強い信念と強烈な熱意があれば、それが起爆剤となり、人を動かし、世の中を動かし、世間に恵みの雨を興す。

 龍が空で高く吟ずると雲が起こり、霧が湧いてきて雨を降らす。龍は水の神様である。

 力量のある人物がものを言えば、この無心な自然界も自ずからそれに沿って動き始める。そんな人には龍が宿っている。

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東洋のドラゴン観

 だから弁財天の頭には、宇賀神様の龍が彫られている。弁財天の起源は古代インドの聖河サラスバティーを神格化した女神である。水の神であり、豊穣をつかさどる神として、信仰をあつめた。弁財天の頭上には農耕の神・宇賀神(髭を生やした老人で、体は白蛇体)を頂くお姿として祀られるようになった。日本人は一木一草にまで神仏が宿るとして、自然を崇拝してきた。龍もそんな信仰から生まれた架空の神様である。日本人は自然を畏敬の念で接している。それが龍の存在で象徴されている。

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西洋のドラゴン観

 それに対して西洋では、人に理解できない様な生物を恐怖の対象として 「ドラゴン」と称していた。キリスト教が世界で実権を握るようになると、 キリスト教に逆らうモノ・・・悪魔や異教の神を ドラゴンと称して「悪しきもの」とする様になった。自然とは、征服するものという観念で見ている西洋人と日本人の差は、「ドラゴン」の扱いでも明確に差が出ている。

 最近は西洋の拝金主義者が唱えるグローバル経済主義に汚染されて、世界と日本社会がおかしくなった。戦争が起こり、行き過ぎた脱炭素運動が展開されている。

 日本の元からある自然との共生、社会との共生を元にした人生観自然観を大事にしたい。その象徴が龍である。世界の中で日本一国だけでも、その志を大事にして世界に恵みの雨を降らせよう。

 

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 吉川充作  青白磁辰 香合

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吉川充作  青白磁辰 香合

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 下田心一 作

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  下田心一 作

 

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池田彩恵 作

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池田彩恵 作   手が可愛い

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池田彩恵 作

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池田彩恵 作   香炉

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池田彩恵 作   香炉


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 池田彩恵 作   香炉

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池田彩恵 作 ドラゴンとお線香立て

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 樋口ナオミ 作

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 樋口ナオミ 作

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 樋口ナオミ 作  昇龍

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 樋口ナオミ 作

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  田中暁子 作

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  田中暁子 作

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  田中暁子 作

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 長田けい子 画

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中島法晃作

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  中島法晃 画   部分

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  中島法晃 画  部分



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 中島法晃作

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 中島法晃作

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 中島法晃作

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鈴木信子 作

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 鈴木信子 作

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 鈴木信子 作

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  田中暁子 作   土鈴


 

2023-12-02  久志能幾研究所通信 2781号  小田泰仙

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2023年12月 1日 (金)

人生の大地を耕す

 

 工場は、社長がその工場の現場に足を運んだ回数分だけ良くなる。それでその工場の生産性がよくなる。それは、社長が現場で第三者の目で問題点を見付けて、指摘し改善をさせるから、生産性が上るからだ。トヨタ生産方式では現地現物が基本である。

 農地は、農民が数多く鍬を入れて耕した土地が豊かな実りを得る。耕せば、土地の内部の微生物が活性化して、土地が肥沃になるからだ。

 恋愛という大地だって、数多く会えば、自ずと相互理解と愛情が耕され、お互いが豊かになれる。

 

文化

 英語「culture」の訳語は「文化」である。その語源はラテン語の「colore」である。「colore」は、「耕す」、「住む」、「崇拝する」などの意味がある。この「耕す」という意味が、現在の「文化」と深い関連がある。耕すという行動によって、人間は自然に手を加え、自分たちに都合のよい土地に作り変えてきた。

 

 人生という大地は、その大地を自分の鍬(体験)で、耕してこそ、よい人生を創ることができる。その大地も、何度も何度も耕してこそ、よき人生経験を得て、人格が豊かになる。たった一度だけ鍬を入れただけでは収穫物は少ない。何度も耕してこそ豊かな収穫物が得られる。

 人が経験したことを、何度も振り返り、それでは、その時、どうすればよかったかと、何度も考えることが、人生経験を耕すことなのだ。それで思考が深まり、その後の人生で同じような経験に出会った時、良き行動がとれる。それだけ人生経験が豊富になり、人格が上がるのだ。そのめぐり合わせのご縁は、盲亀流木のご縁である。

 

70にして69の非を知る

 そのご縁を当時の資料を見て、思い出し、自分の行動を疑似体験して反省する。そうやって私は過去50年分のスクラップ資料(再整理して現在、総計115個のボックスファイル。重量約1.1トン)を日々見直している。そうやって「70にして69の非を知る」を体感している。

 

 人間だもの、最初の出会い(経験)では失敗もあるだろう。次の出会いで、それを修正すればよいだけだ。私の人生は失敗だらけである。そのための過去の体験資料の見直しである。私は失敗の資料を大事に保管している。

 

久志能幾研究所通信  人生の譜面 振り返り

 

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 これで84個のボックスファイル。総重量は約840㎏。

 

2023-11-30  久志能幾研究所通信 2780号  小田泰仙

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