古い足踏式ミシンを断捨離せず
自宅には父が使っていた古い足踏式ミシン(約70年前の製品)が保存してある。父が会社務めをしながら、内職で使っていたミシンである。父の死後、20年余も経つが、保管に場所も取り、今後も使う予定もないが捨てられない。今後も保管の予定である。
認知症の症状とは、家族間、夫婦間、社会とのつながり、自分と人生のつながりの記憶を失った状態である。断捨離でそれらの記録を全て捨てることとは、自分の過去の記憶を捨てる事、感謝を捨てることである。断捨離とは自分で認知症になる一歩を踏む出すことである。私は断捨離をしない。
供養
このミシンには父の汗がしみ込んでいる。ミシンを踏む技量(洋裁の技術)があったから、地獄のシベリア抑留になっても、工場内労働に回されたので、生還できた。そのお陰で今の私の生がある。同じくシベリア抑留された父の弟は、シベリアの土になった。戦後、父はその汗で私を育ててくれた。両親に感謝である。その汗のしみ込んだミシンを保存して、両親の働きかたを思い出すのが供養である。
そういう苦労をした父と比較して、己はどれだけ働いているのか、それを確認するのが供養である。両親は子が幸せになってくれることを願って働いていた。今は感謝しかない。
想い出こそ人生
自分の想い出や家族との記録こそ人生である。想い出や記憶が無くなったら、生きる屍、つまり認知症と同じである。だから現在、流行の断捨離には反対である。捨てても良いものとそうではないものもある。その区別もせず、無節操な断捨離だけには反対である。
2022-01-21 久志能幾研究所通信 2280号 小田泰仙
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