終活で「断捨離」なんて狂気の沙汰
今の持ち物には想い出がいっぱい詰まっている。思い出こそ、人生のそのものである。それを捨ててしまっては、残り人生は死を待つだけの墓場人生だ。思い出が無くなれば、認知症へまっしぐらである。ただでさえ、加齢と共に記憶が薄れていくのに、残った写真、資料があるから想い出にふけることが出来る。それを見直して、さあも一度頑張ろうという気になる。断捨離と整理整頓清掃清潔とは別の次元である。
終活は傲慢
また自分の死期を予定するなんて傲慢である。死期は自分では管理できない。できるのは健康管理である。いくら健康管理しても、不慮の事故は避けられない。それは天の定め。
生かされた命を最大限に使うのが、天命である。永遠に生きるつもりで、精いっぱい生きて、よき思い出を創る。今日が人生最後の日として生きる。
遺品整理
不用品の整理など、死後でも専門業者が金さえ出せば、やってくれる。大した金ではない。その分の金を遺族に残しても意味がない。終活に焦るのは、日頃5S(整理整頓清潔清掃)をやっていない無精者である。日頃、キチンと5Sをやっておけば、何時死んでも悔いはない。後は野となれ山となれでよい。
真の終活
自分のことより、回りの人がいつ死ぬかもわからないので、大事な人には会える時に会っておくのが真の終活である。私は人を見送るので忙しい? この2年間で5人の師を見送った。合掌。
私の両親の遺品も、両親が断捨離をしていなかったので、それを整理する過程で、その人生を振り返ることが出来て、良かったと思う。両親は生きた痕跡を多く残してくれた。
だから私は断捨離はせず、残り人生を楽しむために買いまくっている。勢い余ってレクサスLSも第二の家までも買ってしまった。買い過ぎて、金が無くなりレクサスは手放した。高級車の世界の表裏が分かり、良き経験知を得た。
私の終活として、お墓建立、遺言状作成、戒名拝受、戒名の墓誌へ追記、葬儀段取り、50年間の法要の準備が終わった。それ以外にやることはしれている。ただし、持ち物の整理整頓は必要だ。後から遺族に見られて困るものはない。それがある人なら、それだけ整理をしておけば済む話である。
2021-04-06 久志能幾研究所通信 1976 小田泰仙
著作権の関係で、無断引用を禁止します。
コメント