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2020年12月 6日 (日)

病気は真剣に治す。薫習こそ人格育成の要

 

 病気は全て人格不都合の根源である。その病気の気配を感じたらすぐ手を打とう。因果応報でそれには原因がある。

 病気を治すには、人生目標がなければ治せない。病気は人生目標を妨げる最大の壁である。

 病気と真剣に対峙せず、小手先の対処療法でお茶を濁すから、人生で躓く。人は大石では躓かない。人は小さな小石、ちいさな段差、小さな病気で、躓き、大きな怪我をする。

 親からの薫習こそ、健康(体と精神)の要である。体が丈夫でも精神が健全でないと、病気である。健康とは雲や空気のようなもの。つかみどころがないが、人間の健康管理には大事な要素である。

 

病気の治し方

1 その病気の原因を考える。

2 病気の原因を取り除く。

3 再発防止をする。

4 病気を研究し、横展開をする。

  人生の生き方で同じような間違いをしているはず。

  同じ手法で、「仕事の病気」「人間関係の病気」「都市の病気」「政治の病気」を治そう。

5 人にその内容を伝えよう。それは世へのお布施である。

  お布施にお金は無用。おカネを出すことだけがお布施ではない。

 

都市の病気

 例えば都市も病気になる。繁華街が衰退し、人口が減り、公示地価が下がる。すべて都市の病気の症状である。それを小手先の対処療法で済ませるから、少しも改善しない。大垣市が悪い例の典型である。逆の良い例が福岡市である。大垣市は小川敏の無為無策無能政治が原因で没落し、福岡市は高島市長の才覚で日本一同然の発展を遂げた。

 大垣市没落の原因は小川敏であるが、なぜ小川敏がそうなったかの原因まで探るのが真因の追求である。

 

病気の真因

 その真因は小川敏の両親の吝嗇にある。両親の吝嗇は、その町内では有名であった。父は頭が高く、決して客に頭を下げなかった。その両親の薫習(洗脳教育)を受けて、彼の性格は吝嗇となった。成人になるまでその吝嗇の家風を受ければ、子供も吝嗇になる。三つ子の魂百までである。

 

薫習

 それを仏教では「薫習」という。良き香りの花を触れば、その香りが自然と衣に移るように、よき人と交われば、その良き思想人徳が自然とその人に移る。霧の中を行けば、自然と衣が濡れると同じである。その逆も真なりである。だからこそ、自分の子に一番多く影響を与える存在の親として、人徳を積まねばならない。それが子供に残してやれる最大の財産である。

 己の立場が市長なら、市長の行動思想が市の職員に薫習される。悪い影響を与えれば、市の職員は上ばかり見る保身主義のヒラメとなってしまう。小川敏は20年近く市長として君臨したので、市役所内がヒラメのオンパレードになってしまった。そうしないと飛ばされるから。市の職員も家族があり、生活がかかっている。

 現代の青少年の凄惨な事件は、親の人格的な質の低下がある。そんな親の薫習を受ければ、子供はおかしくなってしまう。

 

内弟子

 芸事で内弟子となるのも、薫習のためである。師匠は内弟子に何も教えない。弟子は薫習で師匠から学ぶのだ。だから内弟子経験者は強い。永世名人の米長邦雄氏も内弟子経験者である。

 だからこそ「3年かけて師は探せ」である。

 

大垣の未来への投資

 小川敏は、大垣市の未来に対して、投資をしない政策を20年近く施してきた。だから大垣市は没落した。端的な例が、小川敏は教職員の給与をケチり、その資金を自分達に振り向け、未来の子供たちの教育をないがしろした。市長として大罪である。

 大垣市の教職員の給与は、一般職のそれより年収で200万円も低い。それでいて一般職の給与は県下一の高さである。

 大垣市の児童生徒一人当たりの教育費が県下最低である。一番の被害者は子供たちである。

 未来への投資が無くては、その街の発展はない。子供の教育こそ、最大の未来への投資である。その投資を小川敏は抹殺した。

 

 熏習とは、身口に現れる善悪の行法である。また意に現れる善悪の思想が、起こるに随って、その気分を真如(あるがまま)や阿頼耶識(潜在意識)に留めることを言う。俗にいう「移り香」、香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う。

 薫習が身口意に現れたのを「現行法」といい、真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子」(植物の種子のように、いろいろの現象を起こさせる可能性、可能力のこと)あるいは「習気」という。

 このように親の行動思考が、相手の潜在意識に影響を与えて、種子(我が子)に習気を留める作用を薫習という。

 「薫習の義とは、世間の衣服に実に香なし、もし人、香をもって熏習するに、すなわち香気あるが如し」大乗起信論

 「熏とは撃発の意味。習とは数々の意味。数々の熏発によってこの種(子)があるから。」唯識述記 一本

 この項、wikipediaを編集加筆

 

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2020-12-06 久志能幾研究所通信 1852  小田泰仙

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