人生「勝ち組、負け組」の判定式
人生ゴールのテープを自分の意志で切れなかったら、敗者である。
マラソンでも自分の足でゴールを踏めなければ、勝者ではない。
最期まで世の片隅で、世の為に真っ黒になって働く人は、勝者である。
死ぬまで、使命を追い続け、前向きに倒れる人は、勝者である。
失敗で倒れても敗者ではない。何度倒れても起き上がり、夢に向かって歩き始めれば、勝者である。人生マラソンでは、いくら時間がかかってもよいから、ゴールのテープを自分で切るのだ。
定年後
定年後、笑顔が少なければ、敗者である。
老いて施設で暮らす男が、笑顔もなく渋面で腕組みをして過ごしている。そんな男に回りの仲間は近寄らない。孤立している。介護士の知人がその男に「寂しくないのか」と聞いたら「寂しい」という。その男は自分の殻に閉じこもり、仲間の受け入れを拒否している。いくら現世で出世をしても、最後の暮らしで負け組に転落である。人と人の間で生きることが出来るものが人間である。笑顔は勝ち組のパスポートである。
孤独でもよい。孤立でなく、自立していれば、勝ち組である。金があっても孤立は負け組である。
ОB会に出て、昔のままの職位順列で媚びを売るのは、負け組だ。私は、以前に会社のОB会に出て、その風景に懲りてそれ以来、参加していない。時間の無駄である。残り少ない人生時間の無駄遣いは負け組の特徴だ。
同窓会で、その話題が、庭いじり、孫、病気、奥さんの悪口だけで、将来の夢を語らねば敗者である。一緒に話していて、こちらの気が滅入る。
病気
認知症になり、思考の混乱の中で死んでいくのは、敗者である。
日本の65歳以上の人の15%は認知症である。75以上は25%、80以上は40%、90以上は68%が認知症である。認知症になるのは、認知症になる生活習慣を送ってきたのだ。因果応報である。原因のない病気はない。
寝たきり、植物人間で息を引き取るのは、敗者である。
後始末が何もできないのでは、敗者である。
引退後、奥さんに支配され、電話代が勿体ない、お金が勿体ないと電話も外出も自由にならないのでは、敗者である。それは人間としての尊厳を無くした存在である。
定年後の話題が、病気と奥さんの悪口だけでは、敗者である。
最期まで、金欲、物欲、食欲、名誉欲、支配欲に支配され、自分を見失えば、敗者である。
居場所
定年前、仕事一筋で、定年後やることがないとボケーと暮らすのは、敗者である。
定年までに自宅が奥さんに占領され、引退後気が付いたら自宅に自分の居場所がないのでは、敗者である。それが原因で、知人で博士号、叙勲までされた人は認知症になってしまった。
残した金
人は残した金ではなく、与えたモノで評価される。残した金は、あの世に持って逝けない。人に与えた人生を送った人は、勝ち組である。守銭奴は負け組である。
隣国の大財閥の総帥のように君臨し、国一番の金持ちになっても、生前・死後で社会的な問題を起こし、問題が山積するような死に方では、勝者ではない。後継者の息子が刑務所に行くようでは、敗者である。
己の死後、遺族が財産目当て裁判までして争うようでは、敗者である。
市長の現役死でも、市民から惜しまれて亡くなるのは勝者である。
いくら退職金を多く貰っても、市を没落させ、多くの人から恨まれて辞めれば敗者である。
自宅
自宅玄関が夜、暗いのは負け組の証し。夜、人が訪ねてきた時、玄関に電灯も付いておらず、蹴躓くような玄関では、人は寄り付かない。それが総てを表している。そんな家の主人が勝ち組であるはずがない。それは玄関にドクロをぶら下げるようなもの。
玄関の表札が出ていないような家が、勝ち組であるはずがない。訪ねて行った人がうろうろする。
玄関の表札の字が彫ってあれば、負け組。それは墓石の表札。
後始末
自分の命は、自分で決めて後始末をする。それは敗者ではない。
引退後、生きざまを自分で決めて生きれば、敗者ではない。
私は癌の手術前に、死を覚悟して、墓を建て(5年前)、葬儀の段取り、遺産の処理、50年間の法事の段取りをして、支払いも済ませた。戒名も決め、墓誌に彫り、朱を入れた。想定外のおまけで、術後、第二の家を買った。
戒名とは、来世で仏道を歩むための名前である。来世で院号のお寺で仏道に精進する。それを自分の意志で選択できたのは幸せである。多くの場合、葬儀の時、戒名を授かる。しかしそれは応急処置で、事前に引導を渡す導師と相談して決めるのが正規である。
生きている価値
貴方がいなくては困ると惜しまれて亡くなるのは、勝者である。
体は老いても、精神が若ければ、勝者として死ねる。
生老病死は生あるものの宿命だが、早すぎて病で死ぬのは、敗者である。それは健康管理の失敗である。せめて、両親の歳までは生きたい。それが親孝行だ。
死んでもいいから、健康管理である。幸せは健康の中にある。
自分の生きざま
人は自然から生まれて、自然に生かされ、自然の中に消えていく。私は仙人として泰然として生きる。それが雅号「泰仙」の私の理想の生き方だ。残念なのは、私はまだこの世に未練があり、もう少し生臭く生きて、最期は煙となって勝ち組で死にたい。
火葬場で
火葬場で、黒い煙が出れば、敗者である。黒い煙は、完全燃焼せずに死んだ証しだ。私は完全燃焼で煙が出ないようのするのが、目標である。
もう一つの私の小さな目標は、火葬後に美しいのどぼとけを残したいこと。
馬場恵峰師の三根子奥様を火葬後、火葬場の職員の方が、「こんな美しいのどぼとけを見たことがない。よほど人徳のある方のようだ」といわれた。その職員の方は奥様と面識はない。
今からでも遅くない。勝者でなくてもよいから、せめて敗者として死なないように頑張ろう。
おカネの問題ではない。生き方の問題である。
死ぬまで現役で挑戦を続ければ、勝者である。
馬場恵峰書
2020-11-02 久志能幾研究所通信 1810 小田泰仙
著作権の関係で、無断引用を禁止します。
コメント