相手がどう思うか 磨墨知257-1
自分の時間は何物にも代えがたいお宝だが、相手の時間の同じようにお宝である。だから何か行動をする場合、相手がどう思うかを第一に考えよう。相手の時間を大事にするから、自分の時間の価値が分かる。人は一人では生きていない。人と人の間で、コミュニケーションを取って生きるのが人間だ。そのコミュニケーション如何で、自分の人生を豊かにも貧しくもなる。
孤独と孤立
その大事なコミュニケーションが取れない人は、人であっても人間でない。そういう人とは距離を置いて付き合わざるを得ない。そういう人との付き合いは、己が組織の長なら、然るべき対応をして規範を示さないと、組織が壊れてしまう。
人間はコミュニケーションを取りたくないなら、孤独で過ごせばよい。しかし人間なら、孤独でも孤立してはならない。しかしコミュニケーションが取れない人は孤立する。最近はそういう人が増えて閉口である。
「相手がどう思うか」以前の問題
わが町内でも、町内の共通の利益のために行う工事(用水路の清掃)に、自分のエゴを出して、協力を拒否する偏屈者が跋扈している。話しても問答無用では、コミュニケーションが取れない。「相手がどう思うか」とはそれ以前の問題である。理論と現実は乖離である。
正義の味方
客観的に正しいこととされることと、人がどう受け止めるかは別問題である。正義に囚われると、人は悪魔になる。その正義が正しいかどうかは、神でも分からない。時代が変われば価値観も変わる。宗教が変われば、全く別世界になる。他人には他人の価値観がある。それに思い至らないのは、思慮が足りない未熟者である。ましてや、海外で仕事をしようとするなら尚更である。
価値観が違っても、「人間」ならコミュニケーションは取れる。それが取れない「人」は、エイリアンであるので、付き合う必要は無かろう。そっと己が身を引けばよいのだ。君子危うきに近寄らず。
プロジェクトは時間の塊
小さい時間は自分だけの世界で作れるが、大きな時間を造るには他人の協力なしには、大きな時間は作れない。あるプロジェクトを推進するとは、大きな時間を造るのだ。
例えば、日本の新幹線プロジェクトでは、日本列島を小さくして、日本国内の移動時間を削減して、我々に大きな時間を与えた。しかしそのプロジェクトの推進でも、相手がどう受け止めるかを考えてコミュニケーションを取らないと、大きなしっぺ返しを受ける。
業務改革
私も前職の会社で、業務改革の推進リーダとして苦労をした。ある業務改革案で、各部の部長から、総論賛成、各論反対に遭遇して、苦渋を味わった。それは大きな時間ロスを生む。だから正論ばかりでは、埒が明かない。業務改革は正論と権力で押し通すしかない。
その状態で相手の状態を考えては、業務改革は進まない。考えるべき相手は、市場の動向である。業務改革で、その権力がないと惨めである。救いは正義の御旗でしかない。そのジレンマで私は悩んだ。改革は相手がどう思うかではなく、天がどう思うかである。天とは市場である。改革は、自分と天を信じて進めるしかない。改革をしないと、属する組織(会社)が、他社との競争に負けて、倒産してしまう。己も失業してしまう。その改革が遅れて、私の属する会社は市場から消えた。
振り返り
それから20年経って当時を振り返ると、成果はともかく、自分を信じて邁進した当時の自分を褒めてあげたい。今も私はそのエネルギーを温存している。身の回りで問題があり、それを解決しようという気力が無くなれば、生きている価値がない。その気力を持ち続けることが、青春である。
社会の敵
人生は綺麗ごとばかりではない。聖人の人生論でも、戦う時は闘わねばならぬ。平和時は正義を貫けばよい。しかし戦争になれば、聖人でさえも、真面目に人殺しをせねばならぬ。国を守らねばならぬ。そうしないと銃後の老いた親、妻子が敵に殺され、国が亡ぶ。
お釈迦様は押し寄せる敵に3度素手で説いて追い返したが、4度目に敵はお釈迦様の部族を滅ぼした。それでお釈迦様は出家された。
その相手が社会的なオイタをしたのなら、正しい糾弾をすべきである。手心を加える必要はない。その場合は「相手が思う」以上の非難をすること。相手は社会的に非常識で、厚顔無比の行いをしたのだから、罰を受けるのだ。そうしないと社会が迷惑を受ける。そうしないと社会の秩序がなくなり道徳が崩壊する。現代日本はその崩壊の兆しがあり、私はその警鐘を鳴らしている。
2020-09-29 久志能幾研究所通信 1765 小田泰仙
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