「終戦」と「敗戦」の違い 言葉とは言霊
言葉の大事さ
人生は言霊に支配される。言葉の定義があって、その物語が始る。その定義を間違えると、とんでもない方向に物語が展開する。
人生とは有意義と定義すると、どんな不幸があっても人生を切り開く力が出てくる。人生は虚無だと定義すると、暗い人生で自殺を考えてしまう。
言葉は人間の生き方を左右する。言葉には魂が籠っている。だから言霊ともいう。敗戦を終戦、敗北逃走を転戦、売春を援助交際、終末治療の金儲けを延命治療、と言い換えて胡麻化してきたから、人生も日本の社会も悪くなってきた。
品質管理の原則はPDCAであるが、その最初の工程は、現状把握である。それを間違った言葉で定義するから、次の展開を間違える。
終戦とは
2020年8月15日の新聞記事やネット記事は、「終戦75周年」で埋め尽くされた。私が目にした報道機関のすべての表現が、「終戦」である。私は「終戦」に違和感を覚えた。「終戦」とは無責任な表現である。本来「敗戦」というべきだが、それを美しい「終戦」に変装である。
「終戦」なら、「そうか、戦争が終わったんだ」、「よかったね」ですんでしまう。しかし「敗戦」なら「その敗戦の責任はどこにあるのか」、「誰が負け戦を始めたのか」を追及せねばならぬ。「終戦」は平和ボケの戯言である。
大手新聞社の罪
太平洋戦争中、その前には朝日新聞を筆頭に大手新聞社は戦争を賛美していた。新聞社としても戦争になった方が、記事が景気よく書けて、新聞も売れて都合がよいのだ。だからイケイケどんどんである。英米との軍縮会議の結論では、不景気な記事しか書けず、新聞の売り上げも上がらない。マスコミにはそんな戦争を焚きつけた後ろめたさがあるから、「終戦」という言葉を使うと推定される。
悪い事例
大垣市政での悪き事例が「大垣は子育て日本一」である。大垣市は児童生徒一人当たりの教育費が県下最低なのだ。それを小川敏は、「大垣は子育て日本一」と虚言を吐くから、嘘で始まる物語は大垣市を衰退に導いたのは、必然の結果である。
少女売春を援助交際と報道するから、日本の道徳が崩壊した。
敗戦を終戦と胡麻化すから、官僚の無責任体質が、この50年間で益々ひどくなった。
受動形禁止
テクニカル・ライティング的に、受動形の表現は無責任の文体として要注意である。例えば「プリンターが壊れました」では、誰の責任かが曖昧で、次の行動がとれない。ビジネスとして、「誰の責任でプリンターが壊れたのだ」と責任追求と再発防止ができない。
広島原爆の記念碑でも「二度と過ちは繰り返しません」とあるが、誰が主語なのか、曖昧な文章である。それでは責任追及も、再発防止にもならないし、凄惨な事故の再発は防げまい。
曖昧な表現が、日本を無責任社会にして、経済が停滞している。「人口が減少しています。」、「景気が停滞しています」等の表現では、だれの責任で人口が減ったのだ、誰の愚策で経済が停滞しているのか、の犯人追及を曖昧にしてしまう。
日本語の文章には、主語が曖昧で、受動形で書かれた文章が多い。意識して、文章を見ることが肝要である。私はテクニカル・ライティングを学んでから、そういう意識で新聞やマスコミ報道を観察している。
2020-08-19 久志能幾研究所通信 1713 小田泰仙
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