« 戒厳令下の「愛知県がんセンター」に通院 | メイン | 小川敏の騙しの手口(?)を公開 »

2020年6月18日 (木)

3.技術と芸術の対比 政治の位置付け 

3-1) レオナルド・ダ・ビンチ  

 以前(1991年)、パリ行きのジャンボ機の中で隣に座った画商より、「本物の絵の値段は人間一人の命の値段と同じ」と聞いた事がある。今回(1991年)、まだまだ私も若い時に、パリとロンドンの美術館で、絵画史上有名な実物の絵画をまの当たりにみて、その意味の微かな香りを嗅げたのは幸せであった。特に、芸術家であり技術者であったレオナルド・ダ・ビンチは、技術者としてなにかと注目せざるを得ない人である。今回彼の作品を目のあたりに接して何物にも変えがたい感動を味わえた。

 レオナルド・ダ・ビンチは技術者としての側面を持っている。そのため、その画風には何処か数学的に計算つくされた香りが漂ってきて、緻密な設計図を観る趣があり、技術者の一人として安心していられる。これが同時代若しくは現代迄の画家と違う所だと思う。また彼ほどあちこちの美術館、博物館に顔を出している芸術家はない。特に科学博物館まで出演しているのは彼だけである。(図7)

 歴史に残る作品は其なりの雰囲気を持っているが、技術者のハシクレの一人としてこういった物が残せる様な仕事がしたいという気持ちがある。科学工業英語セミナーの篠田先生の講義の出会いは、こんいう機会をもたらせてくれた。篠田先生に出会わなければ、コミュニケーションへの理解が違った方向を向いていたかもしれない。コミュニケーションは私もコンピュータのフローチャートを通じて求めていたテーマであった。それを篠田先生の講義によって頭の整理が出来た。

00040021s

  英国科学技術博物館にて  1991年6月9日

 

技術者の表現能力

 技術者と言う人種は、文学者(営業向きの人種と言っては語弊が有るが)と違って100を知っていても10とか20しか表に出さない口の重たい人種である。しかし後者は逆に100を知っていても、それを200にも500にも拡大して表現してしまう傾向にある。こう見るのは技術者としての私の偏見であろうか。

 しかし私は篠田義明先生から「自分の考えたこと、伝えたいことを必要かつ充分に簡潔に、表現する技術を学ぶことが仕事をするうえで重要だ」と教えていただいた。

 芸術と技術の違いは、その作品が個人に帰属するか組織に帰属するかで分かれる。芸術はその個人の持つ能力の最大限の表現となる。これは個人の能力そのものとなるので、数百年前の芸術作品に出会っても我々は感激出来る。しかし技術は集団の能力の結集したものであり、その作品毎にその技術を踏まえて自己発展していく傾向にある。この点から言っても過去の技術の蓄積、伝承は工業国家として欠けがいのない要素と成ろう。そういう点で個人主義の発展した欧米の技術面での最近の凋落ぶり上記の要素が一因と思えてしまう。

 芸術、文学、論文、エッセイ等はその制作上で習得しなければならない技法、手法が存在するが、それ以上に作者の思い、こだわり、心からの込み上げるもの、ある意味の怨念等が籠もっていない作品は、何処か美しいだけで線が細い。

 

3-2) 組織としての芸術、個人としての芸術

 古代、中世、近世、現代の美術を観て感じたことは、組織としての工芸美術品と個人の命の表現としの芸術の違いであった。

 芸術作品はその技法、技術としての発達は古代よりの歴史を見れば、確実では有るが除々にしか変化していないことがよいわかる。これは技術の発展の歴史に比べればその差は自明である。

 芸術の場合は個人の能力に依存する要素が極めて大きく、我々が現代の目で見ても、昔の作品はそれなりの価値観があり、現代のあるかなりの水準以上の才能が無ければ同じ物が生みだせない。だからこそ、こういう芸術作品は永遠に受け継がれていると考える。また当時と同じ感激が現代の我々も味わえる。これは人が命を捧げて編み出した物で、その価値は人間一人の値段と同じなのが理解出来よう。

 技術はあくまでも過去の蓄積の上に成り立っており、個人ベースと言うより組織としての作品の意味合いが強い。我々の技術は過去のだれかの業績の上に成り立っている事を認識すべきある。だからこそその権利として受けた恩恵を、今度は義務として後世に伝える義務がある。この技術伝承の形態の差は美術館と博物館とで良く識別できる。

 そういった意味で古代の王族用の美術、工芸品は多分に組織の匂いが感じられて、作成者の命の息吹が感じられにくく、感動が少ないように思う。これはその作品が命令によって作成され、あたかも工業製品を作るように製作されたせいだと思う。

              以上初稿1991年、2020年6月18日改定

 

経営・政治の設計図

 もともと政治とは自分の思想を実現する仕組みである。その政治の仕組みにトップに思想が表れる。それは経営であり、芸術作品でもある。仕組みである以上は設計図がなければならぬ。政治も経営も芸術作品であるので、そのスケッチ、図面、計画が緻密に計算されてなければ、完成した作品は、不良品になる。

 中曾根康弘元首相は、首相になる前、百冊近いノートにやりたいこと(国家のデザイン図)を書き綴ったといわれる。だから歴代の首相の中では光っている業績を上げた。

 それに対して大垣の小川敏は、前職の小倉満市長の突然の死で、たまたま市長の座が転げ込んできたので、大垣市をどうするかの計画など全くなかったようだ。だからこの19年間の市政では、無為無策の有様となった。

 芸術も政治もその絵を描くには、設計図が必用だ。大垣市の未来にどういう絵を描くか、その熱い思いがない輩が市長になると、その市は没落する。小川敏に支配された大垣が事例である。

 

人生経営の設計図

 自分の人生も同じで、その設計図、航海図がなければ、有意義な人生は送れない。その設計図も毎年、状況に合わせて修正を加えなければ、世相の変化に対応しなければ人生で沈没する。

 

2020-06-18 久志能幾研究所通信 1637 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

コメント

コメントを投稿