「武田信玄公の訓語」で己を照らす
武田信玄は20歳で、父を追放して武田家の家督を継いだ。年若くても一国一城の主である。それで年長者を束ねていかねばならぬ苦労をした指導者であった。反感を持って己を見ている部下たちを統率する苦労を味わった指導者である。
武田家24武将を描いた掛け軸は、武田家の結束を表す絵として有名である。その絵には、23人の武将しか描かれていない。24人とは信玄を含めて24武将である。信玄は織田信長のような絶対君主ではなく集団合議制の指導者のような位置付けで、全体を統率していた。
そういう状況で体得した人生訓が、「武田信玄公の訓語 心についての12か条」である。だから凡人の私には、一つ一つの言葉が納得される。
後継者
いくら名君でも後継者問題は永遠のテーマである。武田信玄は父より後継者の座から排除されたので、クーデターを起こして、逆に父を追放した。時に20歳である。信玄はそれだけの知力も決断力も胆力もあった人物である。
その血筋を引いた信玄の長男義信は、息子たちの中では、能力的にも一番優れていたが、父・信玄と同じようにクーデターを起こす計画をして、それが露見して寺に幽閉され自害に追い込まれた。血は争えない。だから一番優秀な長男を自害に追いやったので、後継者は武田勝頼になってしまい、それが武田家滅亡の道筋となった。
堪忍
その時に信玄に7番目の訓語「堪忍」があれば、長男を生かせる調があったはず。そうなれば武田家は存続したかもしれない。それが頭の隅にあってこの7番目の訓語「堪忍ある時は事を調す」ができたかもしれない。そうなれば、長篠の戦いはなく、馬場春信公は死なず、別の運命となったはずである。そうなれば、私と馬場恵峰先生の出会いはないことになる。ご縁とは不思議なものである。
愛嬌
信玄は若くして統領になったので、古参の家臣が信玄を馬鹿にして言うことを聞かないことが多かったはずだ。その悔しさは、私も年上の部下を持って痛感した。上司と言っても、それは会社から与えられた職位であって、経験は古参の部下の方がある。その中でリーダとして責務を果たすには、構えなければならぬ。心に余裕がないと愛嬌どころではなく、必死なのだ。それが「我慢ある時は愛嬌をうしなう」である。指導者は常に笑顔で愛嬌がなければならぬ。それも指導者として成長するために獲得すべき能力である。
武田信玄公の訓語 心についての12か条
心に物なき時は体やすらか也
我慢ある時は愛嬌をうしなう
欲なき時は義理をおこなう
怒りなき時は言葉やわらかなり
誤りなき時は人を恐れず
驕りなき時は人をうやまう
堪忍ある時は事を調す
私なき時は疑うことなし
勇ある時は悔ゆることなし
くもりなき時は静かなり
迷いなき時は人をとがめず
貧りなき時は人にへつらわず
武田信玄公の訓語心についての12か条也
疾如風除如林侵掠如火不動如山
2020-05-25 久志能幾研究所通信 1606 小田泰仙
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