学ぶとは自分探し
学ぶために記憶するとは、単に個別の項目を覚えるのではない。個々の項目と他の項目の関連を学ぶことなのだ。本を読んで新しい知識を得るのは、今まで学んで構築した脳内のネットワークを強固なベースにする手段である。
単に一項目を覚えても、人生では何も役立たない。それが自分の人生とどういう関係があるかまで、掘り下げて学ぶことが学問である。単に覚えることは受験勉強の抹消の技でしかない。学ぶ以上は、その知識が肉体となり、本能となり、自分自身の癖や性格までを直さねば、本当の学問ではない。受験勉強はその入り口での練習なのだ。
科学
科学の「科」とは、「禾」偏に「斗」と書く。稲を収穫して、それを秤で計測することを意味する。科学は幹を枝に分解して、枝を葉と花に分解し、花を「花びら」と「雌しべ」に分解し、細かく細分化して本質を究明する学問である。
現代は、余りに細分化しすぎたがため本質を見失なっている。病気になり西洋医学がその病名を探求し、治療法を開発するのだが、病気は治りました、病人は死にましたということも起こる。それは部分最適を追及して、全体最適ではない状態に落としている。
経済
経済を究極に細分化した果てがグローバル経済主義で、理論的には正しく、個別には成功するが、社会全体は不幸になる理論である。個人主義の欧米では、経済万能主義に行き着き、これに邁進中である。ねずみが集団となり、狂ったように暴走して海に突っ込んで行き、全部が滅亡する様を思い描いてしまう。
東洋思想
哲学や宗教、そして東洋思想は、その末端からその根源に向ってその源を探る学問である。木を見ず森を見て、その本質を究明する。東洋医学は西洋医学と違い、その病気のもとになった原因を探し、元から治していく治療方法である。
歴史
歴史を学ぶとは、人間の営みを学ぶことである。2000年前の人間の行動と現代人の行動に、差などはない。史記、十八史略、三国史、ローマ史を読むと、人間の行動は昔と何ら変わっていないことが良く分かる。
経営
経営とは、人間の歴史を学ぶことである。「経」とは、縦糸と横糸の関係を象形文字として現している。いままで連綿として営まれた歴史を、現代という流行の横糸で織りなした状況を、盛んに火を燃やして陣屋のなかで活動している様を表現した字が「営」である。今起こっている事象は、過去の事象の流れのなかで、今の事象はどういう関係にあるかを解明するのが、学びである。
今の事象だけに振り回されていると、本質が分からず、間違った対応をすることになる。そのために、その関連を学ぶことが、歴史と経営を学ぶことなのだ。オックスフォード大学には経営の学問はない。経営は歴史を学べば、不要であるという考えである。
死屍累々
学びを怠った民族は、滅亡するしかない。教育をなおざりにする組織は衰退するしかない。その事例は歴史の上に死屍累々と山積する。
万歳突撃を繰り返し、多くの兵士を犬死させた日本軍の愚行は、敗戦まで止められなかった。その血が現代の高級官僚に受け継がれている。
今の中韓の歴史の対応をみていると、考えさせられる。歴史は繰り返すので、歴史を学ばない愚かな国に振り回されることはない。
教育を軽視している小川敏に支配された大垣市が没落したのは、故あること。万歳突撃を繰り返すのと同じで、元気ハツラツ市の愚行をPDCAも回さず、10年間も繰り返すのは、旧日本軍と同じである。日本軍は陸軍大学のエリートと呼ばれる軍人が支配した。大垣市も東大出というエセエリートが、愚行を繰り返している。それで大垣駅前商店街の従業員8000人が路頭に迷った。それで大垣市は没落した。歴史は繰り返す。
Learn from yesterday, live for today, hope for tomorrow.
The important thig is not to stop questioning.
Albert Einstein
昨日から学び、今日を懸命に生き、明日への希望を持て。
大切なのは問うことを止めないことだ。
自分探し
自分探しを怠ると、己を見失い自虐的にも、攻撃的にもなる。挙句にうつ病に罹り、幽霊となり、認知症にもなる。学問をするとは、自分を見失わないための手段である。日本時の65歳以上で15%が認知症になるのは、人として学びを継続しないからだ。何も考えず、痴呆的で洗脳的なワイドナショーのテレビ番組を見続けていることだ。
人として、当たり前に学び続けて、頂いた命を全うしたい。
下図の巻物の文面に気に入り、恵峰先生にお願いして板書に書いて頂いた
2020-05-31 久志能幾研究所通信 1614 小田泰仙
著作権の関係で、無断引用を禁止します。
コメント