旅の峠・人生の峠 死出の旅
松尾芭蕉の旅
松尾芭蕉の「奥の細道」の旅は、芭蕉が最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で、旅の峠を迎えた。芭蕉は山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂まで8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て、頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。
奥の細道は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。1994年、芭蕉三百年恩忌で「奥の細道全集」を書かれた馬場先生も、この峠を境に、巻を分けて構成された。
馬場恵峰先生と「奥の細道全集」上下巻 2011年9月14日
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私の「奥の細道」紀行
小さな私的な人生でもドラマがあり、人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が身近で11名にも及ぶ。還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。
私は大垣に帰郷した2010年9月から毎日、「四季の路」を雨の日も雪の日も歩き続け、16カ月後の2011年末に累計で2,400kmを歩いた。芭蕉が東京深川から大垣までの道中とほぼ同じ距離である。別に意識をしたわけではない。ただ毎日、5kmを継続して歩いた。芭蕉は160日をかけて「奥の細道」を歩き、私は500日弱をかけて2,400kmを歩いた。その後も数年間は、「朝の旅」で歩き続けていた。
人生の下り坂
その後、私は大病をして、人生の峠を迎えた。今、人生の峠を越え、山を下る道を歩いている。今回、思いついて、羽黒山に詣でた。2019年10月24日、羽黒山の山頂までバスで行き、三神合祭殿を参拝してから麓の随山門まで、2446段の石段を歩いて下りてきた。距離にして1700メータ、2時間の下山路であった。
三神合祭殿は月山、羽黒山、湯殿山の三神を合祭した日本随一の大社殿である。ここに参ると3つの山に参拝したと同じご利益があるという。
羽黒山 山頂の三神合祭殿 2019年10月24日、11:55
羽黒山 ニの坂 合計2,446の石段が続く。私は、この道を下った。
2019年10月24日、13:25
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山道の途中の全部の神社に参拝
羽黒山の山道には、山頂の「三神合祭殿」から麓の「門前の宮」、「随神門」まで、大小合わせて21社ほどの神殿、祠、社がある。その全ての神仏に寄って、生かされていることへのお礼を述べて手を合わせた。このため、全行程で2時間も時間がかかった。当日の朝にホテルを出る前は、斎戒沐浴としてお風呂に入り、冷水を浴びて身を清めて現地に向かった。
葉山衹神社 2019年10月24日、13:28
麓の随神門 2019年10月24日、14:06
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下山の難しさ
人生登山では、登るより、下るのが難しいし、体力と気力、知性がいることを実感した。上りは体力に任せて皆と一緒に、一気に登れる。しかし下るには、足元を注意して慎重に下りないと、石段を踏み外す。下るときは、登るときほど、体力がないのだ。私が下る最中で出会った登りの若い人が、上まで行き、その後の下りの行程で、私を追い抜いて行った。その若い人が、山を下る方が膝にきて辛いと言っていた。
羽黒山の下山では、足場の幅狭い石段で、時には足を横に向けないと石段を踏み外す。その危険性は上る時よりも大きい。それで登るよりも多くの時間を要した。下山の終了寸前で、膝がガクガクになってしまった。
智慧
登山は、上るより下る方が大変であるとは、知識として知っていた。今回、下山のつもりではなく、山頂より少し降りて、そこで写真を撮ってから戻る予定で山頂を出発した。ところが勢いで、そのまま下山してしまった。引き返せない所で、この件に気が付いたが既に引き返すには遅かったのが実情である。実際に痛い目をあって身に付くのが智慧である。今回、これを体得した。
馬場恵峰書 2017年仲夏
下山で命を落とす
私の会社時代の仲間の多くが、今までの人生の登り調子で還暦後を過ごして命を落とした。体が変わっているのに、今までの山に登る調子で、山を下りて、人生の遭難をしたのだ。
私ももうじき70である。病み上がりでもあるし、それを意識して、慎重に山を下りた。ガイドブックでは羽黒山の石段は、2446段で、1,700メータの距離、必用時間は60分とある。途中で全社に参拝したためもあるが、私は下山に3時間弱も要した。
今回の旅は、新潟に前泊して、山形県の鶴岡駅前を2019年10月24日10:42発のバスに乗り、羽黒山山頂駅に11:35に着き、そこから下山して、麓の随神門駅から14:35発のバスに乗り、鶴岡駅前に15:08に着いた。当日の深夜23時、自宅にたどり着いて、今回の羽黒山への参拝PJを終えた。
松尾芭蕉は死に装束で登頂
松尾芭蕉も「奥の細道」の紀行で、この山を登り下りた。時に45歳である。頭を白木綿の宝冠で包み浄衣(死に装束)に着替えての登頂である。芭蕉は「奥の細道」の紀行を大垣で結び、その後、伊勢神宮の式年遷宮に参拝して、5年後に伊賀で亡くなっている。享年50歳。松尾芭蕉は、人生の覚悟の旅として「奥の細道」を歩いた。当時は、人生50年の時代である。45歳と言えば、今では70歳くらいだろう。自分の齢に重ねて、人生を思う。
2019年10月24日、11:48
2019-10-25 久志能幾研究所通信No.1378 小田泰仙
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