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2018年12月 9日 (日)

ゲゲゲの訪問記(3)水木しげるロード

 水木しげるロードを中心に、米子駅から境港市にかけて177体の妖怪のモニュメントが飾られている。その一つ一つのクオリティが高く、鑑賞に堪える「妖怪」作品である。

 

妖怪の造形デザインの難しさ

 妖怪は架空の存在なので、それを実物のモニュメントにする場合は、高度なデザイン性が求められる。妖怪だからと、いくら異様な形態にしても、バランスが崩れると、崩れかたがお笑いになってしまう。そうならないようにするデザインが難しいのだ。水木しげるさんの妖怪は、子供を驚かすのが目的ではなく、楽しませるのが目的なのだ。水木しげるさんは、妖怪に愛情を込めて創造している。だから水木さんは今だかって「妖怪」を殺したことがない。戦争体験をした水木さんは、妖怪といえども殺すのは嫌なのだ。これの下地があるから水木さんの妖怪は人気があるのだろう。だから水木さんは妖怪に守られて93歳の長寿を全うした。それも現役で、だ。

 

見えないものへの敬意

 見えないものにも敬意を払う。人間が目で見て確認できる範囲はしれている。それを悟った人が、謙虚になり、人の限界を知り、此の世でモノをなす。ゴーンのように金に執着して、100億近い金を集めても、どんなことを世に残せるのか。人生は金ではないのだ。金に執着した人間は、金に潰される。陰徳に費やしたことは、天が福をもたらす。

 

仏師の感性

 松本明慶師は、師の彫る布袋さんや大黒さんの造形で、例えば布袋さんが、実際に立ち上がったら、その足で体重を支えられる足の太さやバランスまで考えて仏像の形を決める。布袋さんも大黒さんも架空の人物である。架空であるだけに、その造形の彫刻は難しい。明治の著名な某仏師の作った彫刻作品は、それが考慮されていなくて首をかしげる作品が多いとか。その高名な仏師は、実際に現存する対象物の彫刻は、素晴らしい仕上がりであるが、架空の動物や仏様の彫刻は、バランスが破綻している例が多い。

 今回、水木しげるロードの妖怪作品をそういう目で観察して、クオリティが高いと感じた。妖怪でありながら、それでいて恐くないし、愛嬌があるのだ。見ていて楽しい。

 

妖怪像の寄贈で町おこし

 今回、わざわざ遠路6時間もかけて境港市に出かけ、作品を確認した目的は、その妖怪での町おこしの状況確認である。そのモニュメントの多くが寄付で建立されていること。その形態は、宮川大助の寄贈、個人名の寄付、会社の寄付とさまざまであるが、それが境港市の町おこしになっている。寄付者は妖怪を寄付したと誇らしげに自慢になるし、知人を誘って境港市に来れば、町おこしに貢献できるのだ。素晴らしいアイディアである。これを是非、応用したい。

 

大垣市の「寄付金飲み込み妖怪」

 今の大垣市は盛んに市制100周年記念で各企業に寄付を強要しているようだ。寄付をすれば、ご褒美で、岐阜新聞、中日新聞の西濃欄に掲載されるように裏で手を回しているとしか思えない記事が多い。そんな過少な寄付金額で、なんで新聞に掲載されるの?と疑問を感じることが多々ある。個人でも、もっと多額の寄付をしている事例が多くある。行政との利権がないので、大垣市が便宜を図らず、新聞に掲載されないのだと私は見ている。小川市長に媚びを売らせるのでは、まるで乞食行政である。その市制100周年記念行事も、無意味で、会計不明瞭な行事ばかりが目に付く。

 そんな使途不明金の疑惑がつきまとう寄付より、境港市の妖怪モニュメントの具体的な寄付のほうが、妖怪が町おこしの効果が目に見えて遥かによい。大垣市の寄付は、寄付金を食べる妖怪だらけのようで、お金が消えてしまう。少しも大垣市の活性化になっていない。大垣市には「寄付金飲み込み妖怪」が跋扈している。

 

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 「ねこ娘」の妖怪は、普段はおとなしい娘であるが、ネズミや魚を見ると、たちまち目が吊り上がり、牙をむき出し化け猫に変身する。

 

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2018-12-08 久志能幾研究所 小田泰仙

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