「時代衣装で振り返るファッションショー」で伝えたいメッセージは何?
ファッションとは何か
ファッションとは、ある時点において普及している形式や風習である。特に、人々の間で流行している服装を指す。さらに広義には音楽などの文化やライフスタイルまでをも包括しうる。
人の生活スタイルは、衣食住に大きく依存する。衣装はそれに一番密着した項目である。特に現代は、衣装が女性の美しさをアピールする道具としての位置づけが大きい。大垣市は、戦後、繊維産業で栄えた歴史があるが、それは素材を生産しただけで、大垣がファッション産業で栄えたわけではない。
最新のファッションに盲目的に追随する人は「ファッショニスタ」とか、ファッション中毒等と呼ばれる。また、さまざまなファッションを着て見せびらかすという行為は、文化レベルが高いとは言えまい。人は中身である。ファッションショーのきらびやかな仮面は何を意味するか。ファッシンとは流行に流されるイメージが強く、私はあまり好きでない。ファッションにも芸術性もあるが、消耗品・実用品のイメージが強く、芸術的価値が高いとは言えまい。
問題提起
2017年11月17日、大垣城ホールで大垣市熟年式イベント前の「かがやきステージ」のオープニングイベントで、高校生提案行事として平野学園清凌高校による「時代衣装で振り返るファッションショー」が開催された。学生のイベントとしては、見ごたえがあったが、行事として違和感があった。単に、学園が所有している衣装で、過去の時代の衣服を再現するだけのショーであった。
生徒作のデザイン衣装のファッションショーとしての披露もあったが、そのファッションショーが、大垣市制100周年記念にどういう関係があるショーなのか疑問が残った。単に小川敏市長の趣味なのか。
今回の平野学園の「時代衣装で振り返るファションショー」はその大垣市の歴史100年には関係ない内容のファッションショーであった。平野学園の高校生は、何を大垣市民に訴えたかったのか。
ショーとしてのコミュニケーション目的
ショーでも展示会でも小説でも、そのテーマから観客の伝えるべきメッセージがなければならぬ。ショーも一つのコミュニケーションである。コミュニケーションとは情報の伝達である。このファッションショーでは「伝」は有ったが、観客に言いたいことが「達」していない。情報を伝達したら、観客に行動を起こしてもらわねば、コミュニケーションの失敗である。普通のファッションショーでは、観客に新しい服の購入を促すのだ。
このショーにあるのは大垣市から金をもらって、過去の時代の衣服を時代順に再現しましただけだ。で、それがどうしたの? それが大垣の次の100年にどういう意味があるの? 観客の我々は、何を持って帰ればよいのだ。10年後、このファッションショーを振り返って、次の100年にどういう価値を生みだすのか。このショーを見て1997年のスミソニアン博物館での、伝えるべき伝言が抹消されたエノラ・ゲイ展を思い出した。
冒頭に生徒作の最新ファッションの披露があったが、ショーのストーリーとして全体展開で、違和感を覚えた。その部分が後半の時代衣装ショーとストーリーで繋がらないのだ。その時代衣装でのショーの後、また最新ファッションの披露である。ストーリーの論理構成が破綻している。聞き手が急に話の話題を変えられたようで、違和感を覚える。
「時代衣装で振り返るファッションショー」大垣城ホール 2017年11月17日
ガラすきの観客席
100個の行事の一つの賑やかし?
私の感触では、このファッションショーは平野学園の学園祭で開催すべきレベルの行事である。何も市民税を投入して、大垣市制100周年記念行事の一環で、熟年式前の行事で開催する話ではない。観客もわずか200名程度である。熟年式に招待された関係者を除けば、実質50人のほどの少人数である。
このファッションショーで平野学園の生徒は何を大垣市民に伝えたいのか。それが大垣市制100周年記念行事としてどういう位置付けになるのか。せいぜい200人の観客(多くは関係者と推定)のために、市民税を投入するのは、一部の学園への利益誘導ではないのか。開催をヤメにしたら何か影響があるのか。影響がなければ、無駄の行事である。100個の行事の一つとして賑やかしで出されたみたいだ。
後世に何が残るのか?
今回の開催レベルでは、単に、大垣市制100周年記念行事の予算の消化行事となっている。単なる時代衣装のファッションショーでは、後世に何も残らない。フーン、そうなの、で終わってしまう。モデルにスポットライトが当たったのは、虚像であったようだ。翌日の岐阜新聞も中日新聞も無視である。
提案
家のタンスの奥に眠っている和服や着物を、現代風に仕立て直して、熟年式に参加する人が着て、ファッションショーをする。それなら熟年式を盛り上げて、平野学園がファッションショーをする価値がある。平野学園の学生も、創造性の発揮できる学びの機会となる。今回のように単に、学園が所有している衣装で過去の衣服を再現するだけなら、学園祭でやるレベルの行事である。何も学生のファッションショーを見るのに、熟年式のアトラクションとして、大垣市民税を投入して、開催する話ではない。
オープングで上図の現代スタイルのファッシンの披露があって、なぜ次に平安時代なのだ。
平安貴族の女性
武士の正装
芭蕉の時代衣装の披露の場に、なぜ、現代版のキャラクターが出てくるの? 論理の破綻である。
2018-11-25 久志能幾研究所 小田泰仙
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