極楽運転道 1.車の安全対策(5/8) 平常心
師への諫言
2013年2月14日、馬場先生宅に知己塾出席のため訪問した。当日、市内に食事に誘われた時の恵峰先生の運転が、先生の人格らしからざるレベルであった。要するに、運転が荒っぽく、仏様のような馬場先生がハンドルを握ると人が変わったのだ。車は人を虜にする魔物である。そこに車の素晴らしさと恐ろしさがある。見るに見かねて、後日、運転の改善をお願いする手紙に、自著の運転ノウハウ資料『交通安全の科学』を添付して、おそるおそる差し上げた。なにせ私の師である。事故があれば日本の宝の損失である。手紙で諫言を書くのに一大決心が必要であった。
礼状
その後、三根子先生から絵葉書の礼状が届き、「心暖まる運転のご忠告ありがたくお受け致します。私も実はハラハラドキドキで乗せていただく時もあり、言うとオコルので、言えません。でも小田先生からお便りをいただき助かりました。心から感謝です」である。馬場先生は神業の筆力を持ってみえるが、やはりシャイな暖かい人間であった。安心した。
私の悩み
2018年の今にして思う悩みは、馬場恵峰先生がそれだけ荒い運転をしていても、今まで事故もなく、お巡りさんにも捕まっていないこと。恵峰師は、運動神経が特別に優れているか、神仏のご加護があると、思うしかない。それは戦国武将の馬場春信公を彷彿とさせる。その馬場春信公の末裔である馬場恵峰師は凡人の尺度では測れなと悟った。凡人の私がとやかく言うことではないのかもしれない。しかし我々凡人は、交通安全に関しては基本に忠実であるしかない。
馬場信春公伝説
井伊家の赤備えは、もともと武田信玄軍団の赤の装備に由来する。徳川家康が、徳川四天王と称された井伊直政の武功を称えて、赤備えを許したという。
馬場恵峰先生の先祖は、武田家の武田四天王といわれた馬場信春公である。武田三代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。
長篠の戦いの中、織田・徳川連合軍との決戦で、武田軍は敵の鉄砲隊の防御陣を突破できずに、数で劣る武田軍の攻勢は長続きしなかった。次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊した。大敗を喫した武田勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた馬場信春は、反転して追撃の織田軍と壮絶な戦いをして戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。享年61。人生50年といわれた時代の61歳で、現役の将として桁外れの奮闘には驚嘆する。
大阪夏の陣(慶長20年・1615年)に参戦した子孫が戦いに破れて、九州の山奥に落ち延び、焼き物の窯元として身を隠したという。
馬場家の窯元跡 長崎県波佐見町
馬場恵峰師近況
馬場恵峰師は、鬼美濃と呼ばれた馬場信春公の先祖がえりで、剣を筆に持ち替えただけ理解すると、先生の天分の由来が理解できる。その腕で車の運転をするから、事故も違反の検挙も無いのかも。でも同乗させてもらうと、こわ~いですよ。(笑)
2018年現在、馬場恵峰先生は92歳で、95歳までの運転免許証を交付されている。つい最近、(私が一寸目を離すと?)中国の黄山に登山に行かれ黄山を走り回り、この6月19日に帰国されたばかり。黄山は、中国・安徽省にある景勝地で、伝説の仙境(仙人が住む世界)を彷彿とさせる独特の景観から、古代から「黄山を見ずして、山を見たというなかれ」と言われいる。さすが疲れたと言われるが、どげんかして、そげん元気ばってん?
「平常心」の揮毫
恵峰師へ諫言の手紙を書いた1ヵ月後の2013年3月27日、「岐阜駅じゅうろくプラザ」で恵峰先生の講演会があり、「平常心」の掛け軸を皆さんの前で揮毫された。先生の手にかかると数分間でうん万円の書が完成する。その背景には50年間の修行がある。でも我々凡人は50年かかっても到達できない。
翌日、馬場恵峰先生は「奥の細道むすびの地記念館」の見学のため大垣を訪問され、私が案内させて頂いた。その昼食会場で、前日の「平常心」の掛け軸を贈っていただいた。さすが人生の達人の先生は、お礼の表現もさりげなく、超一流の芸を駆使される。感謝です。
人生道の走行
車の運転では平常心が必要である。自分という乗り物で、人生道を平常心で走り、道なき道の走った跡を「道」にするのが理想の人生である。平気で死ねる、平気で生きられる心境に達することが人生修行である。横を走る車と比較し、競争する必要はない。人と比べることは自分を失うこと。
2018-06-20
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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