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2017年8月 2日 (水)

平成の四天王像を彫る(2/2)

平成の増長天、広目天の創造

 明慶師は四方を守護する四天王像のそれぞれの役割に思いをめぐらせた。増長天が槍を持っているのは、邪悪なものから守るためだ。その象徴として胸の甲冑にトンボをあしらった。トンボは前にしか飛ばない。決して退却しないぞ、という強い意思を示した。広目天の胸にはセミをとまらせた。悪鬼や怨霊を排除する気迫の象徴として、お寺の鐘が遠くまで鳴り響くように、佛法の教えが響き渡るように、との象徴である。広目天は、広く見渡すのが役目だ。どこまでも声が届くセミによって存在感を示し、「全てを見ている」ことを表現した。いずれも、伝統的な四天王像にはなかった形態である。

 「強さを表す四天王の顔は、怒るだけではだめ。見つめられたら嘘をつけない。そう思わせる表情にしなければ」と。師は木の中にいる仏をいかに引き出すかに、心を砕いた。「開創1200年の節目に遭遇し、佛師として最も充実しているときに携わることができた。ご縁以外のなにものでもない」と師はその喜びを語る。

 完成した二体は精緻を極め、膨れ上がった腕の血管や鎧の形状などがリアルに表現された。「私としては最高の出来栄えになりました。今後千年以上、中門で耐えてくれるでしょう。高野山を守り続けてほしい」。明慶師は「平成の四天王像」を見上げながら願われた。 

己の邪鬼

 邪鬼とは己の醜い心の象徴である。邪鬼とは脇役で、主人公の天を見栄えよくするお役目がある。歌舞伎でも脇役がいて初めて主役が映える。人生舞台は主役ばかりでは、幕が上がらない。己が一人多役で処々の役割を演じて、人生劇場が移り行く。己が邪鬼のときもあれば、佛のときもある。人の心は諸行無常で流転する。己の醜い心があるからこそ、同居する美しい心が映える。人の心に陰影があってこそ、人格に深みが滲み出る。

 人生の四方の守りを固め、その姿を四天王の姿で象徴する。己の世界(国)を支えるため(持国天)、大きく成長し(増長天)、種々の眼を世界に向けて(広目天)、法を日に何回も聞き(多聞天)、佛の王国を護るため己の欲望という敵と闘う。時として頭をもたげる我儘な心(邪鬼)を己が足で踏みつけ、法と筆で己という佛を守る。その邪鬼も菩薩行として背中を差し出し、足場を供する佛に変身する。邪鬼としての邪心があるから、心の菩薩行が修行となる。邪心がなければ、最初から佛様であり、修行をする必要はない。欲望があるから人間なのだ。谷に落とされても欠けないものが「欲」である。欲を無くしては、生きる甲斐がない。人は生を受ければ、成長しようという欲を持つことだ。その欲を夢に昇華してこそ現世の佛である。

平成の邪鬼の創造

 その邪鬼を能舞台で主役を支える脇役として、明慶師は平成の邪鬼として「創造」した。その解釈の差は、江戸時代作の持国天と多聞天に踏んづけられた邪鬼の姿と対照すると興味深い(図6,7)。明慶師のアドバイスで、絶妙のポイントから邪鬼を撮影することができた。現在は高野山中門の柵の中に安置されているため、柵が邪魔してこのような写真は撮れない。良きご縁でした。(図4,5)

天は目で語る

 今回、松本明慶先生が製作された広目天、増長天は、目が素晴らしい。天の前に立つと、己を睨みつける目が飛び込んでくる。己の邪気に満ちた心を見透かすような恐ろしい目である。その目の中に佛の心を観る。江戸時代に製作された大佛は、目の視線が6m上で、真っ直ぐ正面を見ている目なので、その大佛の心が伝わりにくい。それが江戸の大佛と平成の大佛の大きな差である。拝観者を睨みつける目の姿勢に、明慶先生が創造した平成の大佛の付加価値がある。目の彩色は仏像彩色師の岩田明彩先生がされた。

己という敵

 高野山という一つの国の中門で、四天王が四方を護りで固めている。それを個人に当てはめる象徴として四天王がある。我を滅ぼすのは我である。己の退廃が、人生を台無しにし、自分の所属する国を滅亡に導く。己を護るのは己である。

 持国天とは国を支える、労働の姿の佛である。汗水たらして働いて税金を納めることで国を支える。それを親の脛をかじって遊びほうけたり、働けるのに生活保護を受けたりして、税金を納めないのは無賃乗車である。血の税金で建設したインフラ(道路、橋、空港、電気ガス水道、国の体制等)を無賃で使うというキセル行為である。年金生活者でも、働くことはボランティアでも道の掃除でも多くの方法がある。働かない後姿を子孫に見せるから、子供が堕落する。

 増長天とは成長する自分である。大きくならないと見えない世界がある。小さな世界に考えがとどまっていると、自己中心的な動物界の存在に陥る。目の前に見えている壁の向こう側を、成長して観えるようにしなければならない。体だけ大きくなっても、見識が高くないと、見えるものも見えない。小人(ことな)から大人(おとな)になる修行をつむことである。

 広目天とは、種々の眼を世界に向けて観る佛性である。佛性は己の中にある。その佛性でものを見るとは、目先に囚われず時間軸の長い目で観ることだ。一面だけで見ず多面的、全面的、広角的に見ることである。枝葉末節の囚われず、根本の本質を見ることだ。今のマスコミは、あまりに枝葉末節の事象を、針小棒大に書き立てる。日本のマスコミは増長天のようには成長していない。その広目天は筆と巻物をもって、人生の邪悪から自分を護っている。その武器は剣ではない。筆で書いたものが自分を守り、他の不正を明らかにする。筆で書いたものこそが、自分の生きた証である。それが最大の自己防御となり、自己実現の一つとなる。

 多聞天とは、世の中の法を何回も聞く仏のことだ。世の真理は法に書いてある。何時でも何処でも誰にでも通用することが「法」である。それを無視して行動するから、世の中で失敗する。人は忘却の天才である。だからこそ、大事な人生の「法」は耳にタコが出来るくらい何回も聞くことだ。多聞天は佛でありながら、何回も「法」を聞く姿を表している。佛でない人間なら、多聞天のその数十倍は聞かねばなるまい。四天王は護るための剣は持っていない。己を護るのは剣ではない。筆であり、法であり、成長であり、目である。

 

図1:広目天  松本明慶先生作。目は岩田明彩師の彩色

図2:増長天  松本明慶先生作。目は岩田明彩師の彩色。

        ピンポイントの拝観位置にて

図3、4:足元の邪鬼は脇役である。踏みつけられているのではない。

   脇役がしっかり主役を支えている。邪鬼はお役目に生き、目が活きている。

図5、6:修復された持国天と多聞天  江戸時代の作

図7:見る視点の差

 

2017-08-02

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

仏像の著作権は松本明慶師にあります。

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