時間創出1001の磨墨智 1(改定)
1.時間の有限性に気づくのが最大の時間創出
人生は、総合力の問われる死活ゲームである。その敵の一つは自身の優柔不断さである。己が司令官として駒を動かし相手と戦うのだが、その真の対戦相手は「時間」である。もし、己がためらっていたら、相手はどんどん先に進んでしまう。己の対戦相手は決して優柔不断でない。息をしている間に、どれだけのことを為すかである。全員の行き先が死である。そこから人生を考えること。
四季は、なお、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前より来らず、かねて後ろに迫れり。人みな死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
(吉田兼行『徒然草』第155段 1331年)
成年重ねて来たらず。一日再び晨(あした)なり難し。時に及んで当に勉励すべし。歳月は人を待たず。(陶淵明(365~427年)『雑詩十二首』)
時間の浪費 p 35
その原因はどこにあるのか? 君たちはあたかも自分は永久に生きられるかのように今を生きていて、自分のいのちの脆さに思い致すことは決してない。いかに多くの時間がすでに過ぎ去ったかを意識しない。時間なぞ無尽蔵にあるもののように君たちは時間を浪費している。そうやって君たちがどこの誰かに、あるいは何らかの事に与えているその日が、実は君たちの最後の日であるかもしれないのに。死すべき者のように君たちは全てを怖れ、不死の者であるかのようにすべてを得ようとしているのだ。 (セネカ「人生の短さについて」3-4(中野孝次訳))
セネカの言葉には死の影が付きまとう。セネカは暴君の第5代ローマ皇帝ネロロの幼年期の家庭教師として有名な哲学者・政治家である。ネロが皇帝に即位後は有能な家臣として手腕を発揮したが、不興を買い遠い異国の僻地に飛ばされたり、またローマに呼び戻されるというネロに人生の運命を弄ばされる。ネロの暴政に嫌気が指し引退を申し出でたが許されず、悶々と政治に携わることになる。最後は、ネロの気まぐれで自殺を強いられることになる。その前兆を感じているが故に、文章に死を意識した言葉が匂う。セネカは死に際し、「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない」 (タキトゥス「年代記」15.62)を残したと言われる。
師を殺すのは、自分の過去を殺すのと同じである。時間との対戦相手は、自分を殺す教え子かも知れない。歴史書とは、運命の冷酷さを教えてくれる教科書である。
2017-07-25
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