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2022年5月23日 (月)

セントレア空港ピアノで、母の教えを思い出す

 

 5月8日にセントレア(中部国際空港)に行ってきた。その一つの目的が、セントレアのロビーに置かれた空港ピアノを確認するためだ。

 

 しかしそのピアノを見て少しがっかりした。中部地区の世界の窓口であるセントレアには、そのピアノの顔は相応しくなく、貧相なのだ。私がこのピアノを見た感想は「下品」である。

その辺の地方の駅に置かれたピアノならまだしも、国際空港の誰でも弾ける空港ピアノとして、考えてしまった。中部国際空港は、楽器産業の浜松の近くである。世界からも有名な音楽家も数多く訪れる。

 このピアノはヤマハC1のようだ。聞けば寄付されたピアノという。なにか情けないと思う。

 

母の教え

 私の母からは、「会社から出張で食事をするとき、会社から支給される金額相当の食事をしなさい。1000円の食事代なら、それ以下の食事をしてはならない。出張旅費を浮かそうと安い食事をすると、人が見れば、「あの会社はあの程度の金しか出さない貧乏会社」と見られて、会社の恥となる」と教えられらた。

 会社にも、人にも「格」と言うものがある。それから外れると、社会から変な目で見られて信用を落とす。相応の会社や組織なら、分相応の振る舞いや身なりが求められる。

 

空港ピアノ

 だから中部地区を代表する国際空港のセントレアに置くピアノなら、相応のピアノにして欲しいと思う。小さな街のストリートピアノではないのだ。そうでないと中部地区やトヨタの恥である。かたがピアノ、されどピアノである。だってセントレアに設置された立派な音楽ホールには、ヤマハSクラスのピアノが設置してあるのだ。セントレアはお金持ちのトヨタが作った空港である。空港ピアノを設置するなら、セントレアにふさわしいのピアノであって欲しい。

 私が世界的な音楽家を出迎えたり、見送ったりするとき、自慢できるピアノが空港にあった方が中部地区の人間として誇らしい気がする。

 以前に、チェリストのTIMMやドレスデントリオをお出迎えしたり、お見送りをした時を思い出し、その場で素晴らしいピアノで一緒に演奏できたらと思うと、ワクワクする。

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2022-05-23  久志能幾研究所通信 2389号  小田泰仙

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2022年2月22日 (火)

夢の挑戦 ヤマハCF6からCFXへ目標変更

 

 「夢は大きく」が私の主義である。夢を抱いて行動していれば、いつかは実現する。大きな夢を抱かない限り、自分の成長はない。夢も永遠に実現しない。夢を見るとは、潜在意識が実現可能だからと判断したから、夢を見させてくれるのだ。実現不可能なことは思いも付かない。私だって中国の皇帝になるという夢(悪夢?)などは見ない。

 

一生青春

 一生かけても実現できない夢を持ち、それに挑戦することは、人生を前向きにしてくれる。そのためには、人生経営の業務改革が求められる。一生挑戦の人生だ。それが一生青春である。現状との目標との乖離を埋めるために、智慧を出し続けねばならぬ。

 

業務改革

 ビジネスや人生で求められるのは、従来の延長線上の努力ではなく、発想の転換なのだ。業務改革なのだ。百年前の馬車の改革で必要であったのは、馬を力強くすることではなく、エンジンの発明であった。フォードはそれで業界に革命を起こし、世界最大の自動車メーカになった。

 大きな夢を実現するには、神仏は何かを変えろと言っている。だから夢は大きくすることが、人生を変えるのだ。

 

トヨタ式 夢の実現

 トヨタでは、目標数字を1桁変えろ、半分にしろ、ゼロを1つ取れ、が業務改革のキーワードである。そうやってド田舎の泥くさい会社が、50年かけて世界一の自動車会社に変身した。絶え間ない継続的改善が50年間で革命を起こした。

 50年前は、日産は超エリート集団であった。しかし名門の日産は没落し外国に買われた。当時の御料車は日産製であった。ところが、日産が外国のルノーに吸収されたので、御料車はトヨタ車に変わった。そのご縁で、私がその御料車の開発の一端に携われたのは行慶であった。

 50年間で、日産は没落したが、トヨタは発展した。当時の東大出のエリートは、ド田舎の豊田市などに、都落ちなどしたくもなく、東京の華々しい日産に就職した。しかし日産に就職したエリート達は、派閥争いと労働組合の天皇支配に降り回されて、本来の活躍ができなかった。当時、そもそも日産東京本社の駐車場には、トヨタ車が多く駐車していた。日産社員がトヨタ車を愛用していたのだ。しかし当時、豊田市のトヨタ本社の駐車場には、トヨタ社員は日産車を乗ってくることはなかった。愛社精神の違いである。それが50年後に明暗を分けた。夢の実現には、自分を育ててくれるベース(会社)を、大事にするか、しないかは神様の問題だ。神様はよく見ている。

 

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 天皇皇后両陛下が乗っておられるセンチュリー 

 2012年‎12‎月‎5‎日  大垣スイトピアセンター前にて 

  当時、天皇陛下皇后陛下が大垣に行幸された折、撮影。

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私の夢

 現在の私の夢は、ミニホールの建設である。そこに設置するピアノは、今までヤマハCF6を計画していた。しかしそれをコンサート用ピアノのCFXに変更した。良きものは、良きご縁を招く。よき楽器は、よきご縁を導く。最高のモノでは、付き合う人も変わってくる。最高品を目指せば、最高のご縁が得られる。並みの製品ではワクワクしないのだ。最高を目指してワクワクすれば、魂が踊る。それが命に力を与える。

 

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 トヨタの考えでは、「何でも悪いことに使うお金でなければ、あとからそいつは何んとでもかなる。金のことでトヤカク考えていて、やらねばならぬことの時期を失するなぞ、おおよそ馬鹿げている(児玉一造氏)(石田退三著『トヨタ語録』WAC p175)

 イチロー選手の助言は、「うまくなるためには、よい道具を使う」である。

 一番良いものには、製作者の魂が籠っている。一番良いものを手に入れれば、自分の一部となって人生を助けてくれる。

 

 夢が実現しなくてもよい。背伸びしてでも、高い目標にそれに向かって取り組むことが、生きる力を与えてくれる。棒ほど願って針ほど叶う。それでよいではないか。願わなければ、何も手に入らない。実現しないのは、まだ智慧を出し切っていないのだ。神仏はそう啓示する。

 

 武智先生に受けた薫陶の中で、「一番いいものを見て、一番いいもの中に育っていないと芸が貧しくなる」とよくおしゃっていた。

   中村鴈次郎「私の履歴書⑨」日経新聞2005.1.10

 人生を生きる芸を磨こう。

 

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 馬場恵峰書

 

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2022-02-22 久志能幾研究所通信 2312号  小田泰仙

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2021年7月27日 (火)

猫足ピアノ、天上界を目指して4mジャンプ

 

 懸案であった猫足ピアノの移動が、1年がかりでやっと今日(2021年7月27日)、完了した。コロナ禍の非常事態宣言での延期、台風8号接近といろいろと邪魔が入ったが、今日(大安)無事に別宅に移動できた。

 当初の一階の部屋から別宅に移動して、猫足のピアノが約4mの高さまでジャンプ(クレーンで吊り上げ)して、無事二階の極楽音楽室に納まった。猫ちゃんには極楽浄土のような天上界である。

 ピアノ運送専門業者の手際の良さに感心である。重さ350キロのピアノを2人で荷造り、移動させたのには驚嘆である。さすがプロである。

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移動のための分解

Dsc00400s  梱包してトラックに積み込み

Dsc00414s クレーンで4mも持ちあげる

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移動先の部屋に仮置きになりホッとする

Dsc004281s 設置完了

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 今から、3年ぶりにピアノレッスンを思い出して再開しようと思う。防音工事等も考えなければならないが、ボチボチとやって行こうと思う。

 2018年春、河村義子先生が病気で入院されたため、個人レッスンが中断となった。2018年12月25日、突然の訃報に茫然であった。私も胸騒ぎを覚えて検査をしたら、翌年1月に癌が発見された。急遽手術をしたが、2年半経っても体調が完全には戻らず、ここ3年程ピアノに全く触っていない。リハビリをかねて、元気を付けるため、ピアノを再開する計画である。

 この猫足ピアノは、自分が構わなくて勝手に鳴くので(自動演奏付き)、それを聴くのも楽しみである。この猫足ピアノには、華がある。よい買い物をしたと思う。

 

猫足ピアノの鳴き声

 このピアノはヤマハC2がベースである。河村義子先生宅でのレッスンピアノはC6である。サイズが違うだけ、やはり大きなサイズのC6の音は、響きが違う。そのため今までC2に少し物足りなさを感じていた。ある時、河村義子先生が来宅して、この猫足ピアノを弾かれた。「調律もきちんとされているし、いい響きね」と褒めてくれた。何時も私が出している音と違い、その響きの差に驚嘆した。「どうしてそんなすごい音が出るの?」と聞いたら、義子先生はさりげなく「(私は)プロですから」。私はギャフン! 音の良し悪しは、ピアノの差ではなく、腕の差であることを思い知った。腕を上げるには、天上界を目指して地道に練習する以外にはない。

 

2021-07-27   久志能幾研究所通信 2102  小田泰仙

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2021年6月29日 (火)

ブラームス 老いのピアノ演奏

 

 2016年、私が戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを調査する過程で、ビデオ「ブラームスのロウ管」(北海道放送)が、私のピアノの師である河村義子先生から送られてきた。

 そのブラームスは戸田伯爵夫人の琴の演奏を聴きながら、六段の演奏をピアノ楽譜にした譜面に朱を入れた。戸田伯爵は、大垣藩最後の殿様である。明治になり、ウィーン公使としてウィーンに赴任した。

 そのビデオから分かったことは、天才のブラームスにでも、老いは襲ってくる冷酷な事実である。その時の対応の如何に人間性が露見する。

 

ブラームスの老い

 ブラームスは音楽の3Bと称せられる存在である(バッハ、ベートベン、ブラームス)。その大作曲家、ヨハネス・ブラームスが自作「ハンガリア舞曲第一番」とJ・シュトラウス「とんぼ」のピアノ演奏をロウ管シリンダーに録音したのは、エジソンの発明から約12年後の1889年12月2日である。

 この歴史的なロウ管は、ボーゼ博士によるSPレコード(1938年 TELEFUNKEN製 78rpm)は、録音・保存状態の悪く、最新のレーザー再生装置でもうまく再生できない。「ハンガリア舞曲」の旋律は、ピアノというよりアタック感の無いヴァイオリンの音に近く、「とんぼ」に関しては凄まじいトレース・ノイズで、最新の技術を使ってもほとんど聞き取れない。

 これはロウ管の保存状態の悪さと、録音時の条件の悪さに起因する。ロウ管に入ったヒビは第二次世界大戦の責任で、マイク・セッティングのミスはブラームス本人の思惑だった。

 ブラームスは、この録音セッションの為に自作「ラプソディ作品79-2」を用意したが、その練習中に自分の技量の衰えに気付き、後世に自分の老いの露見したピアノ演奏を残すこと躊躇を覚えたようだ。ブラームスは完ぺき主義者であった。

 親しい友人であるフェリンガー家でのセッション当日、神経質になっていたブラームスは、録音技術者に対して非協力的だった。突然「フェリンガー夫人がピアノを演奏します!」と自嘲気味に叫びながら、ブラームスは録音技術者のマイク・セッティングが終わらないうちにピアノを弾き始めた。フェリンガー氏は慌てて「ピアノ演奏はブラームス博士です!」(この部分から録音は開始)とアナウンスを録音に被せた。

 ブラームスは録音を嫌がっていた事は、その記録から明白だ。彼の代表曲「ラプソディ」でなく、ハンガリア民謡をベースに作曲(編曲?)した「ハンガリア舞曲第一番」を弾き飛ばした事や、その後にシュトラウスの「とんぼ」という超軽い曲を弾いた事から見ても明らかだ。

 ブラームスの人生は、この録音事件の頃から急速に陰り始める。もともと自分の才能に対して懐疑的だったブラームスは、書き溜めていた楽譜を河に捨てたり、演奏活動から遠ざかったり、ついには遺書の用意まで始める。

 そして1896年、最愛の人クララ・シューマンが急逝し、その埋葬に立ち会う為に40時間もの汽車旅をした事で体調を崩し、1897年にあの世へ召される。

 本稿は、「ブラームスのピアノ自作自演」© 2016 Hisao Natsume. All rights reserved. Designed by Sakuraphon.( http://www.78rpm.net/column/brahms-plays-brahms.html)を参考に加筆編集。

 

 

録音技術とのご縁

 老いてもまだまだ技量もある世界3Bの一人と称せられるブラームスである。老いは神の御心、それに従ってありのままを受け入れて、67歳のピアノ演奏を残し欲しかった。ブラームスの技量の絶頂期とエジソンの録音機の本格的普及の時期が少しずれてしまった。それもご縁である。

 自分にできることは、その時のご縁を大切にしたいである。私は馬場恵峰先生の書の撮影で、最新鋭最高級のカメラ機材を揃えて撮影した。今にしてよくやったと思う。

 

健康管理

 ブラームスは写真等から推察すると、かなりの肥満で、老化の進展が速かったと推定される。天才はその芸に没頭して、自分の体のことは後回しになるのかと残念に思う。天才モーツァルトも、35歳で連鎖球菌性咽頭炎から合併症で亡くなっている。天才だからこそ、宝石のような才能を支える健康を大事にして欲しかった。

Strauss_und_brahms ヨハンシュトラウスとブラームス  ウィキペディアより

 

 馬場恵峰先生は老いを隠さなかった。しかし自分の体の健康には大変気を使われた。だから94歳まで現役で活躍することが出来た。

 馬場恵峰先生に、「先生の90歳の時の書と70歳代の時の書の差は何ですか」と聞いたら、「70歳代の書には勢いがある。90歳の書には艶がある」である。人は老いても相応の作品が出来上がる。老いを隠す必要はない。

 

 ご縁があり、2017年4月、ウィーンを旅した。戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを発見された楽友協会のビーバー・オット博士と面会し、ブラームスの墓参りをした。

 良きご縁からはよきご縁が生まれる。今は、コロナ禍で、海外には行けない。良き時にウィーンに行けて、その報告を河村義子にできて良かったと思う。その時は河村義子先生も元気であった。

P1000934s1 ブラームス像の前でビーバー・オット博士とツーショット 2017年4月24日

 楽友協会にて

P1000812s  楽友協会 ウィーン   2017年4月24日

 P1000721s ウィーン市立墓地  2017年4月20日

P1000779s 音楽家たちの墓地エリア

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P1000849s ブラームスの墓地

P1000776s 音楽家たちの墓地エリア 左がモーツアルト、その左がベートベン、中央がヨハンシュトラウス、右手がブラームスのお墓である。

『佛が振るチェッカーフラグ』 p94

2021-06-29   久志能幾研究所通信 2074  小田泰仙

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2021年4月15日 (木)

カーテン・コール(凍る?)商売

 

 セカンドハウスのピアノ室(ピアノはまだ未搬入)に、スタジオ用の防音カーテンを追加する計画をした。1年前にこの部屋の一面の窓に、このカーテンを取り付けた。あと一面の窓のカーテンを「カーテン・コール」で付けようとしたら、業者が、下記のようにほざいた。

 「年度末の3月末に在庫は処分するので、注文は3月中にして欲しい。同じ型番でも、新しく製造するカーテンは色合いが微妙に違う可能性がある。その保証が出来ないので、是非、今すぐ注文して欲しい」である。

 

 人を馬鹿にするな、これでは脅迫である。

   この業界では、本年度分の在庫を3月末に処分して、4月から新たに在庫を揃えるようだ。違和感のある商売方法である。

 今回、購入しようとしているのは、スタジオ用の吸音カーテンで、日本で作る工業製品(東リ株式会社)である。劇場やスタジオで使われているカーテンである。ロットが違ったら、極端に色調が変わってしまうはずがない。私は日本の品質管理を信じている。多少、色が変わっても極端ではあるまい。実質的に問題はない。

 防音専門メーカの社長に事情を聞けば、この業界はそういうもんだ、それが慣習だということであった。製造メーカはまじめだが、カーテン販売業界がふざけている。

 この対応で、相手業者の寒々とした心の温度を感じて、「カーテン凍る商売」のカーテン販売屋から逃げた。しばらく冷静になるために、追加のカーテンを付ける計画を一時中断した。

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2021-04-15   久志能幾研究所通信 1990 小田泰仙

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2020年12月26日 (土)

一人では成佛できない  「學」とは

 

 2011年4月6日に第50回京都佛像彫刻展に出かけたら、偶然、松本明慶先生にお会いできた。展示されている佛像を説明していだいた。そこには若い佛師の作品が展示されていて、中には松本工房から独立して、佛像を作っている佛師の作品も展示されていた。素人目から見て、松本工房の佛師の作品に比べて、出来が落ちるのがわかる。明慶先生によると、独立したくらいだから腕はいいのだが、独立当時から作品のレベルが変わっていないという。つまり時間が止まっている。

 これは、独立した仏師が、自分の世界に閉じこもってしまい、松本工房で大勢の仲間との切磋琢磨が無くなり、成長が出来ないとのことである。自分の世界と比較して、身につまされるお話である。人は、批判、指導により人間として成長し、その作品の出来に影響するのだと。作品がその人自身を冷酷に表す。

 菩薩とは如来になるべく修行中の佛様をいう。菩薩様は修行をしながら衆生を救う佛様として拝まれている。一人では成仏できない。回りの仲間がいてこそ、自分が成仏への修行ができるのだ。仲間は自分の鏡なのだ。仲間に手を合わせて感謝しよう。

 その学びは、仏像彫刻に限らず、全ての芸術、学問にも当てはまる。

 

「學」

 「學ぶ」の「ワかんむり」は「学びの館」を表し、下の「子」は、学びの館で過ごす生徒を表している。その学生たち、教師との対話をしている様を冠の上の象形文字で示している。一人では学べないのだ。一人で学べるのは超人である。凡人の我々は師に従って、仲間と議論をしながらその道を進むのだ。それを表した文字が「學」である。

 師との出逢いこそ、最大の学びである。だからこそ、「3年かけて師を探せ」である。

 また一緒に学ぶ仲間のレベルも影響する。良き仲間を探そう。朱に交われば赤くなるのだ。

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Img_43861s  馬場恵峰書

 

2020-12-26 久志能幾研究所通信 1874  小田泰仙

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2020年12月25日 (金)

賽の河原のピアノ弾き(改2)

 

 賽の河原の石積とは、親の供養のための童子の願行ではない。それは己が成仏させられなかった己の願行である。「禁煙・禁酒、毎日6時間勉強」と願をかけ、最初の数日間だけは実行するのだが、内なる鬼が「そんなしんどいことは止めて、もっと気楽にしなはれ」と天使の声の如く耳元に囁きかける。

 今まで積み上げてきた禁煙・禁酒、勉強の継続という名の「石積の供養塔」を壊すのは鬼ではなく、怠惰な自分である。成就させることのできず、途中で投げ出した供養塔が、人生でどれほどあることか。幼くして死んだ子は、自分が投げ出した三日坊主の象徴である。賽の河原の石積はあの世ではなく、己の「人生という大河」の両岸にある。チャレンジしては、途中でおっ放り出した死屍累々の山に手を合わせたい。

 

内なる地蔵菩薩

 積み上げた石積を壊す鬼を止めるのが、己の内なる地蔵菩薩である。佛像は己の心を現す鏡である。自分の心には鬼も住めば、佛も宿る。場面ごとに鬼と佛が心の鏡の中に交互に現れる。堕落に誘う鬼の時もあれば、己を厳しく裁く裁判官の時も、救いの佛さまのときもある。すべて自分の心が決める。

 

地蔵和讃

 賽の河原の積み石の「地蔵和讃」は、子供に対する寓話ではなく、怠惰な大人への説法である。「三途川の河原の石積」はあの世ではなく、己の心に存在する。地獄に堕ちる前に、自分を救ってくれるのは、地蔵菩薩という名の自分である。菩薩とはひたすら修行道を歩く佛様である。

  『失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる(松下幸之助翁)』。

 諦めるから、失敗になる。三日坊主を殺すのは自分の内なる劣等感という鬼である。邪気を振り払い、ひたすら目標に向かって、壊されても崩されて賽の河原の石を積み上げ続ける。そうすれば内なる地蔵菩薩が助けの手を差し伸べる。自分を救うのは自分である。

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 松本明慶先生作 白檀 地蔵菩薩  松本明慶佛像彫刻美術館蔵

  写真掲載には、松本明慶佛像彫刻美術館の許可を頂いています。

 

馬鹿じゃなかろうか

 賽の河原の石を積み上げ続けられるのは、純真な心を持ち続けた童だけである。中途半端に大人になり、純真さが薄れ、雑草が心に芽生えると、石を積み上げる気力も失せる。人から見て「馬鹿じゃなかろうか」としか思われないことをしなくなる。それは成長ではなく退化である。バカではないかと思われることを平然とやり続けられる人間になりたいもの。

 

 ピアノには誰しも憧れるが、習得は難しい楽器である。必死に練習をして、やっと弾けるようになったバイエルンの練習曲でも、翌日になると指が絡んで上手く引けないことが多々あり、自分の才能の無さに忸怩たる思いをさせられる。ピアノを習熟するには毎日8時間の練習を10年間すればよいというが、それだけの情熱をほかの面に向ければどんな道でも成功者になれる。プロ相当の腕になるには、賽の河原の石積の試練を乗り越える情熱が必要である。才能よりも弾きたいという情熱をいかに継続させるか。それを持続した人だけが、三日坊主の鬼の手から逃れられる。

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岩崎洵奈さん  ベーゼンドルファーModel 250

 ベーゼンドルファー東京 2016年3月13日

 

 前写真のピアノはベーゼンドルファーModel 250で、ウィーンのオペラ座で100年間弾かれ続けた歴史を背負う。このピアノを弾ける舞台に辿りつく前に、賽の河原に消えたピアノ弾きは無数にいる。

 100年間も現役で活躍したピアノが存在することは稀有である。その修復が完了してベーゼンドルファー東京ショールームに展示された。2016年3月13日、ピアニスト岩崎洵奈さんの演奏で、このベーゼンドルファーModel 250と現フラグシップのModel 290 Imperialとの弾き比べのミニコンサートが開催された。招待を受け現地に出向いた。ミニコンサートの後、Model 271 を少し弾かせてもらって幸せでした。

 

三途の河で地蔵菩薩

 人生で情熱を傾けられる道を見つけて、人からは馬鹿じゃなかろうかと呆れられても、それを意に介さず、我が道を歩き続けられる人は素晴らしい。そういう人は、迷わず胸張って浄土へ向って歩き続ける。思いを心に刻んだ三日坊主が生きながらえると、三途の河で地蔵菩薩に逢える。

 宮仕えの時は、60歳までという期限があった。定年後はその制限が無くなる。レッスンの遅々たる進捗にめげず、悠々とレッスンを続けよう。こちらは死ぬまでにマスターをすればよい。死ぬまでにゆっくりと賽の河原の石積をすればよい。智慧と使える時間の量は、孫よりも多いと認識しよう。

 

2020-12-25 久志能幾研究所通信 1873  小田泰仙

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2020年12月12日 (土)

国破れて山河在り 義子師去りて音楽在り

 

 義子先生の死を思うと、なぜか李白の「国破れて山河在り」の詩が頭をよぎる。義子先生が活躍していた「音楽の国」が破れてしまった。義子先生が亡くなっても音楽を愛する人たち、友人、門下生が変わりなく生きている。大垣の山河も変わりなく四季の移り変わりを演奏している。自然は声なき音楽を奏でている。

 

 私も老いて髪も白く薄くなったが、音楽を愛する気持ちは変わらない。義子先生の志を継いで、大垣の「音楽の国」の再建に向かって、一助として精進したい。朝起きて、まだ息をしていれば、「この世でまだまだやるべきことがある」との仏様からの啓示である。「起きたけど 寝るまでやることなし」ではない境遇に感謝である。

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2020-12-12 久志能幾研究所通信 1859 小田泰仙

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2020年11月 8日 (日)

死刑の証明は1つで十分  磨墨知28 

 

 無為な事に時間をかけすぎない。自己満足の証明のため、決断の時を無為に延期するのですか? その「裁判」の目的はなんですか? 死体に鞭打つのですか? 後の始末は仏様がやってくれる。目的を忘れると余分な事に時間を使うもの。それは死んだ子の歳を数えると同じ。

 

死刑判決

 過去の人を「死刑判決」で鞭打たない。その人に自分は「死刑判決(絶交、絶縁)」をしたのだ。その魔の世界から遠ざかれば、幸せが手に入る。時間が手に入る。腐れ縁で苦しむのは、縁を切れない優柔不断な己である。その人は住む世界が違うのだ。価値観が違うのだ。「人種が違うのだ。」

 

人種が違う

 「人種が違う」とは故河村義子先生が言った言葉。私は河村先生主催のコンサートの勧誘で、チケットを売るため走り回っていた。その中で当然来るべき人、義理でも来なければならない人と思って勧めたら、その人に「休日に来なければならないほど魅力あるコンサートですか」と拒否されて愕然とした。その報告を河村先生にしたら、河村先生が私を慰めてくれた言葉が上記である。

 そのコンサートが河村先生の生前の公式最後の公演となった。私が主のスポンサーとなって開催したコンサートだ。ドレスデントリオを招いての2018年1月13日の新年コンサートであった。

 河村先生の葬儀当日、2018年12月、その人は葬儀には来たが、焼香だけを済ませると早々に消えた。義理で来たことが見え見えであった。私には何か割り切れない気持ちが残った。私はその人に「死刑判決(絶交、絶縁)」をして正解であったと悟った。

 

病気というご縁

 自分を癌にした原因には鞭打たない。そういう苦い経験が今の自分を作った。当時はそれで極楽だったのだ。やってはいけない事、付き合ってはいけない人を、身を挺して体験したのだ。人生の修行時は、清濁併せのまねば成長できない。自分はそれから知見を得たのだ。後は、その魔の世界から遠ざかればよい。

 酒、煙草、分かっちゃいるけどやめられねぇ、では犬猫以下である。

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   馬場恵峰書

 

2020-11-07 久志能幾研究所通信 1817  小田泰仙

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2020年10月29日 (木)

私の夢 ミニ音楽堂の建設

 

 私の夢は自宅にミニスタジオ(音楽堂)を作り、そこで世界の一流の音楽家に、リハーサル会場の提供やミニコンサートを開催することだ。

 現在、コンサートホールで演奏する音楽家は、そのリハーサル会場に困っている。正規のホール会場を1日借りると、賃料で30万円は取られる。大垣に来る音楽家は、宿泊先のホテルで、「近くにリハーサル会場はないか」と必ず質問する。

 

ドレスデントリオの想い出

 2018年1月13日、河村義子先生がドイツからドレスデントリオを呼んでコンサートを開催した。そのリハーサルは、金山駅近くのマンションの一室で行った。その部屋で、河村義子先生も一緒にリハーサルをされた。

 その部屋は、ピアノの先生が個人のピアノレッスン用に借りている。その部屋は完全な防音設備がないので、気兼ねして練習をするようだ。

 私は、そのその場に同席して、リハーサル風景を撮影させてもらった。休憩時、一緒にお菓子を食べながら楽しくお喋りをした。それが良き想い出である。それを自宅で出来れば幸せと、自宅にミニ音楽堂の建設を夢見ていた。

 

大人のおもちゃ

 私はそれの実現のため、今年の初めに「大人のオモチャ」(家)を買った。それはこの8年ほど探し回っていた要件にピッタリであったので即決した。それも朝、物件を見付けて夜に買うことを不動産屋に報せた。我ながら狂気である。

 それで、まず第一歩として、ミニ音楽堂の入れ物は準備が出来た。今すぐには改造工事費が工面できないので、手が付けられないが、近い将来、そこにミニ音楽堂を完成させるのが夢である。ミニ音楽堂の建設と言っても、防音工事費がかかるし、コンサートピアノも家庭用のピアノの数倍と高価である。これからの資金繰りが大変だ。でもそれも生き甲斐の糧になる。

 この歳で、新しい家を買ったので、友からは狂気の沙汰だと呆れられている。人は狂気の時こそ、大きな仕事できる。まともな神経では、プロジェクトは進められない。だから医師からの余命宣告通りには、死ぬわけにはいかない。医師を信じれば、余命宣告通りに死ぬことになってしまう。

 

 「人間は本質的に狂の部分を持っている。

  狂っているときが一番正常で健全だ」

      ギリシャの哲学者セネカ

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 ドレスデントリオの練習風景  2018‎年‎1‎月‎8‎日、

 

2020-10-29 久志能幾研究所通信 1806  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。