何故あの仲間たちは死んだのか?
自分はこの人生劇場の主人公である。他の知人もまたその人の人生劇場の主人公である。
この10年程かけて記述した(自分が主人公の)『自分史(人生という本)』(A4版で約700頁(400字詰め原稿用紙で約2,800枚)を読み直し、あの時、あの人は、何故死んだのかを考えている。
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会社勤め38年間で、一緒に仕事をした仲間の20名余もが定年前に世を去った。その原因は何だったのだろう?と分析をした。
またなぜ自分が生き延びられたかも考えている。
久志能幾研究所通信: 西部戦線異状なし (enjoy.jp)
http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2017/11/post-d9b4.html
寿命を全うできなかった理由
1 会社には7人の敵がいることを知らなかった。
2 健康情報を軽視した。
3 生きる意味を知らなかった。
4 自分の体力を過信した。
5 自分がウサギなのに、ライオンに歯向かった
6 体調が悪いのに我慢して出勤していた。
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事例
1 会社には7人の敵がいることを知らなかった。
私は、母から「男が外に出れば7人の敵がいる」と教えられた。
それを認識しない仲間の一人は、そのために命を落とした。
宮仕えでは、辞令一つでどこにでも飛ばされる。人事は、究極、上司の好き嫌い。
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2 健康情報を軽視した。
将来を期待された若者であったが、独身時代の食生活が良くなかったようだ。結果として若年性認知症になり、40歳前後で世を去った。
今検証すると、頭は良かったが健康に関する意識が疎かったようだ。多分、四毒を頻繁に摂っていたようだ。
3 生きる意味を知らなかった。
第二次世界大戦後にシベリア抑留をした人が言うには、頑強な若者でも、生きる意味を失うと、あっけないほど早く死んだという。朝起きると、隣のベッドで若者が冷たくなっていたという。父もシベリア抑留を経験したが、生きて帰れたので、今の私の命がある。
アウシュビッツ強制収容所から生還したヴィクトール・E・フランクル(『夜と霧』の著者)は、この収容所の生活も人生で意味がある経験と考え、全力で生きた。だから地獄の強制収容所から生還できた。
1992年頃、バブル崩壊で前職の会社も大騒動になった。アホな経営者が「全社一丸となって頑張って乗り切ろう」と、知性を捨て、精神論丸出しで、事務職まで現場応援の緊急体制を取った。慣れない現場のライン作業で、私の仲間は家族を離れた臨時の寮で、ある朝、冷たくなっていた。多分、その現場応援という現実が生きる意味を打ち砕いたのだろう。経営者が犯した殺人であると思う。
戦後の不景気に、松下幸之助社長は、仕事のない時期、従業員の勤務時間を教育と社内整備、掃除に当てたという。不景気が終わったら、業績は他社より格別して延びたという。それこそが経営者の判断だ。
4 自分の体力を過信した。
その先輩は、頻繁にマラソンで体を酷使するわと、ハワイマラソンにも出るなど、体力を自慢していた。
私は若い頃から、激しい運動は過酸化酸素が体をいためるからと注意をしていた。彼は笑って私の忠告を無視していた。
彼には『スポーツは体に悪い』という本で紹介したが、無視された。激しい運動をすると体内に過酸化酸素が作られ、体を老化させる。
彼は、還暦後に歯のインプラント手術もして歯を矯正した。彼はインプラントの危険性を調べなかったようだ。
私も2013年頃、インプラントを歯医者より勧められた。手術直前にその危険性を知り、当日の手術2時間前にドタキャンした。危ないところだった。家のリフォーム工事を請け負ってくれた業者の人が、インプラントの危険性を教えてくれて、命拾いをした。その人が私の健康を気にして、連絡をしてくれた。これもご縁である。
彼は70過ぎでガンになり、人知れず亡くなっていた。その死を知ったのは、死後半年後であった。死後のお参りにも行けず、心残りであったが、縁なき縁であったと思うことにした。
5 自分がウサギなのに、ライオンに歯向かった
一年後輩の仲間は、上司に些細なことで盾ついて、後年、フランスの出先に飛ばされた。純粋な技術屋の彼には二の思い勤務だったようだ。現地で体を壊して、帰国後2年で返らぬ人となった。まだ50代前半である。
上司は権力を持っている。逆らうとは、自分がウサギなのに、ライオンに歯向う事なのだ。宮仕えには鉄の掟がある。彼はそれを安易に考えたため、命を落とした。
6 体調が悪いのに我慢して出勤していた。
朝、体調が悪いと会社を休んで病院に行ったら、そのまま帰らぬ人となった。
部署的に、合併後の2つの会社のいがみ合いを調整する立場で、心労が絶えなかったのだろう。
自分は人生の主人公である。仕事で体調が悪くなるようなら、その職場を去る決断をしても良いはずだ。彼はそれができなかった。
7 処遇に不満を持ち、会社を辞め、もっと地獄な会社に転職した。
彼が会社を辞める時「あんなにがんばったのに」というぼやきをきいたことがある。どんなに努力をしても、その評価をするのは上司である。その冷酷な掟を彼は軽視したようだ。
今の階段でうまくいかないのに、別の階段でうまくいくわけがない。まず今いる階段で、どうやってリカバリするかを考えるべきだ。彼はそれが出来なかった。
彼は現状に不満を抱き、会社を辞め、地獄な会社に転職した。その会社はリストラの嵐が吹き荒れる寸前の会社であった。社内派閥争いの絶えない松下電器である。過酷な労働環境で(精神的に)、彼はスキルス性のガンになり、半年で命を落とした。
なぜ今のままを我慢できなかったかと残念に思う。
何故、自分は生き延びられたか
神仏の加護、ご先祖の加護があり、運が強かったと思うしかない。また私は若い頃から、毎朝の読経(修証義)を欠かさなかった。修証義は生きる哲学が述べられている。これを体得したのが良かったのだろう。
これからも神仏ご先祖に感謝して生きようと決意した。
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2024-10-13 久志能幾研究所通信 2959号 小田泰仙
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