死は必然、自分への弔辞、生前に受戒会
自分への弔辞
2000年頃、自己啓発研修を受け、その中のカリキュラムの一つで臨死体験をさせられた。その後、自分への弔辞を書かされた。
その臨死体験で自分の闇の部分を見せられ、厭世観を抱いた。いくら研修とはいえ、生々しい醜態の己の姿を見せられるのは残酷である。
それでしばらく落ち込んでしまい、立ち直りに時間を要した。しかしそれで人生の出直しが出来たようだ。人生のやり直しはできないが、出直しは何回でも出来る。
今振り返ると、その弔辞に書いたことで、その弔辞に書かれたように、その後の人生を生きてきた。弔辞を書いたことで、自分の将来の生き方が明文化されて良かったと思う。
生前戒名
2019年にがんを患い、手術をした。がん部摘出後の所見で、医師より5年後の生存率51.6%と宣告された。退院後、覚悟を決めて戒名を授かった。戒名を授かるとは来世で、その名に相応しい行動をとれるような佛になる仏道修行に励むことだ。
この世で生を受け、両親はこんな人に成って欲しいと子供の名前を付ける。しかし親の期待を裏切って、多くの人は、その名前のような生き方では人生を歩めななかったのが現実である。
戒名はそれを反省して付ける名前である。実際にあの世で仏道修行に励む前に、事前にこの世でそれを目指して励むのが、正しいやり方である。
亡くなってから戒名を授かるのは臨時応急処置である。本人も不本意だろう。死人に口なしだから、導師である住職さんは、生前の本人の行動や人柄を家族から聞き込んで、戒名を付ける。だから生前に、住職様と打合せをして、自分でも納得できる戒名を決めておくのが正しいやり方である。
馬場恵峰先生が私の戒名を揮毫中。
馬場恵峰先生の書道教室にて 2019年10月29日
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院号
院号とは導師が自分のためにあの世で建ててくれる寺院名である。その寺院の住職として仏道に精進せよとの教えである。
格式あるお寺では、生前の行動や人格に問題があるといくら金を積んでも院号を付けてもらえない。
私の院号は「泰観院」である。
戒名を決めたので、墓誌にも刻印をした。その字も馬場恵峰先生に揮毫して頂いた。その2年後、馬場恵峰先生は亡くなられたので、揮毫して頂けたご縁に感謝している。
私はまだ生きているので、墓誌の戒名に朱を入れた。赤ペンキで塗ると、石にペンキが染み込み、私の死後、簡単に色が落ちず困るので墨朱である。墨朱は数年たつと剥げてくるので、また朱を入れねばならぬ。生きているから致し方ない。生きているだけ幸せである。
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葬式とは
葬式は、受戒会式(戒名を授ける)と告別式の2つからなる。生前戒名では、受戒会の式だけが執り行われる。私は戒名を決めているので、近いうちに受戒会の式を行う予定である。そうすれば、死んだ後は告別式だけで良い。死の前後は忙しいので?、やるべきことを早めにしておくのは良いことだ。
いつ死んでも良いように準備をしたら、なかなか死ねない? ありがたいことだ。
ガンセンターの薬剤医師と抗がん剤治療で喧嘩別れをした手前、意地でも簡単に死ぬわけにはいかない。今は健康管理全開である。
ガンが治っても、生物だから何時かは死ぬ定めである。だからこそ、今日、今を全力で生きていきたい。
馬場恵峰書
2024-03-22 久志能幾研究所通信 2846号 小田泰仙
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