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2023年3月17日 (金)

豊田章一郎 左遷にも 観音様が 慈改革

赴任した技術管理部門で刺された

 2000年、私は技術部管理部門に異動となった。私は、新部署でトヨタで活動が始まっていた業務改革を推進するつもりでテンションが高かった。しかし、古株の女性社員、古株の係長、偏屈の主任が私の方針を理解せず、反発して課内がギクシャクしていた。

 

 停滞していた課内と3D-CAD化の推進で業務改革しようと意気込んでいたら、足元をすくわれる密告にあった。密告者は周りからも問題視されていた社員であったが、私が価値観を押し付けすぎると部長に密告して私は降格された。その古参の女性社員は技術部門内でも問題児で有名であった。

 

 自分は、今にして振り返っても、何らやましいことをしていないが、現状を変えたくない三流社員には、我慢ができなかったようだ。私も、人を見て法を説かねばならないとの悟りの境地には程遠かった。当時の私はまだ若く、熱血漢の課長であった。犬でも食べている餌を取り上げると、狂った如く怒る。それと同じで、今まで美味しく食べていた環境を勝手に変えられる不安になり、敵とみなし襲ってくるのだ。

 

 その社員は10年後、別の部署の異動させられた。さらに天の差配で(としか思えない)、肉親から臓器移植を受ける身となり、かなりの間、休職した。私は仏様のお裁きと思う。体調が悪いと、つい被害者意識が高じ、自分の回りに起こる変化を嫌うのだろう。つくづくと健康でなければならぬと、今にして思う。健康とは体と心の健やかさをいう。

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変革の嵐

 「何も変えないことが、もっとも悪いことだ!

  改革をしなくてもいい。せめて邪魔をしないで欲しい」

とは、奥田碩トヨタ社長(当時)の言葉である。

 奥田氏は仕事能力が高かったため、当時の上司に疎まれて、フィリピンに飛ばされて、現地で腐っていた。それを豊田章一郎社長がフィリピンに出張したとき彼を見いだした。早々に彼を国内に呼び戻して、後日社長にした。奥田碩は一橋大学出で、本流のエリートではない。この一件だけでも豊田章一郎の人事の凄さがわかる。

 普通の人事は、好き嫌い以外の何物でもない。人事の職位は能力を現すものではない。エリートほど急激な変革を嫌う。その中で宮仕えするとは、芸術作品を作るようなものである。仕事をする前に、上司を懐柔せねばならぬ。それは下塗りの前工程である。それが世渡りのための方便の仕事である。

 その真実が分かったのは、私が退職した後のことである。しかしそれでは遅いのだ😿 芸術作品も、ごく一部の人にしか理解も好きにもなってもらえない。それを分ったうえで胡麻を擦らねばならぬ。しかしそれでは変革の時代に淘汰される。

 

奥田碩社長の波動

 その奥田碩氏は1995年から1999年までトヨタの社長を務め、保守的であったトヨタを変えたといわれる。ハイブリット車のプリウスを発売した社長でもある。このハイブリット車プリウスが技術開発されることで、私は技術部門から生産技術開発部に飛ばされることになった因縁ある社長である。お陰でネットシェイプの先端技術開発に携われた。すべては仏様の差配のご縁である。

 トヨタで始まった業務改革は当社にも影響を与えており、私も前部署で一定の成果を上げ、異動先の新職場で、業務改革に燃えて赴任した背景がある。しかし、全員は業務改革をやりたくないとの現実に直面した。よい勉強になった。

 

Photo_2   初代プリウス  トヨタ自動車 

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大垣の業務改革

 なぜ変わらないか。それは、今まで慣れ親しんだ方法が一番良いと思い込んでいるからだ。今の大垣市の役人も、利権にまみれ、ぬるま湯につかっていて、そこそこに過ごしていれば、怒られることもない。美味しい利権を手放すのは惜しいのだ。

 しかしその間に、大垣という大船は、船底に穴が開き、沈没しつつあるのだ。甲板でどんちゃん騒ぎの宴会をしている餓鬼どもは、それには気が付ない。みんな一緒に沈んでいく。定年退職後、大垣に帰郷して、この10年間も見てきて、寒気がする。なんとかせねばならぬと、焦りがでる。

 私も骨になるまで、待っているわけにはいかない。仕掛けねばならぬ。当時、業務改革で傷だらけになったが、傷の大きさよりも、動いたことで大きな成果を得た。その戒めとして「私も骨になるまで、待つわ」は良き警告である。

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Photo

  山路徹画 

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2023-03-17  久志能幾研究所通信 2644  小田泰仙

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