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2022年7月 4日 (月)

快楽の都市 ポンペイや 艶ものどもが 夢のあと 次は南海トラフ大地震が襲う

 

 2010年の秋、私がローマ旅行をした際、10月13日の一日を割き、現地募集のポンペイ観光バスツアーにローマを飛び出した。日本人の専属ガイドが添乗員で同行したポンペイ観光ツアーである。その時の旅行記を記す。

 総括の感想は、2000年前のポンペイの都市の状態が凍結保存されており、タイムカプセルを開けるようでメチャメチャ面白かった。行って良かった。

 

 ポンペイは、イタリア・ナポリ近郊、ヴェスヴィオ山のふもとにあった古代都市。79年のある日のヴェスヴィオの大噴火で発生した火砕流によって地中に埋もれた。その遺跡は、ユネスコの世界遺産に登録されている。

 

 紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマ(ローマ帝国)の植民都市となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。

 

 ポンペイは商業が盛んな港湾都市であった。整備された大きな港があり、海洋都市でもあった。またぶどうの産地であり、主な産業はワイン醸造だった。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、計画的に設計された都市である。

 

 街の守護神は、美と恋愛の女神ウェヌスであった。 娼婦の館も発掘され男女の交わりを描いた壁画が多く出土したので、現代ではポンペイは「快楽の都市」と呼ばれることもある。古代ローマ時代は性的におおらかな時代であり、ポンペイに限らず古代ローマの商業都市には商人向け(旅商人向け)の娼婦館のような施設は多かったという。

 この項、wikipedea (2022/7/4)より編集・加筆

 

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 ポンペイの案内看板 (2010年10月13日撮影)

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危機管理

 2000年前、火山が突然に噴火し、突然時速100キロの火砕流がポンペイの都市を襲い、人口2万人が一瞬で飲み込まれ、全員が即死に近い状態で死亡した。現在でもそんな状況になったら、危機管理として何を為すか、考えが及ばない。せめて、日頃の備えをしたと思う。せめて危機意識だけは持ち続けたい。

 日本でも巨大地震が起これば、状況は同じだ。南海トラフ大地震が起きて、3分後に30m高の津波に沿岸都市が襲われたら、為す術がない。大自然の前には、技術の粋を集めた建造物など砂上の楼閣なのだ。我々は2011年の東日本大震災でそれを目のあたりにした。ポンペイ遺跡は、その現実を改めて突き付ける街であったと、12年後の今、当時の旅行を思い出している。

 30m高の津波とは、ビル7階建ての高さである。

 3分では、そのビルにさえ登り切れない。ポンペイの火砕流と同じである。

 南海トラフ巨大地震は、2035年±5年に100%の確率で発生すると統計的に計算されている。

 だから今から準備しなければならぬ。それが私が12年前にポンペイ遺跡を見学して、今それを回想した結論である。

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 大垣新市庁舎 屋上の高さが約36m

 これで南海トラフ大地震の30m津波高さを想像されたし

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天国(娼婦館)への案内

 ポンペイの街角の石畳にオチンチンのマークが浮彫で表示されている。そのおちんちんの方向に娼婦館があるとの印である。2000年前も人間の欲望は同じである。なにせ売春は世界最古の商売である。貿易で発展したポンペイには、カネをもった商人が多く行きかっていた。春の商売も盛んである。

 当時の人はおおらかである。当時は倫理観が厳しいキリスト教が普及する前で、当時のローマ市民は男女の開放的な性の営みを罪悪とは思わない。シーザーの女遍歴は有名である。人生を虚楽的に過ごすのがローマの人生観であった。「今を楽しめ」が当時の価値観である。それはローマを建設した、回りの国家を征服した勝者の考えである。なにか今の世相と相通じるものがあり、背すじが寒い。

 

  勝者で貴族の立場なら、辛い労働は奴隷がやってくれる。周りは海の幸が溢れ、美味しいワインが豊富である。食べるか、性の営みか、奴隷の決闘を見るかかの虚楽的な楽しみしかない。人生を楽しめ、である。

 それで本当に人間として幸せであったのか、考えさせられる。奴隷の決闘で血が流れるの姿に、当時のローマ人が熱狂する風景に寒気がする。

 貴族の身分なら、カネも権力もある。飯は美味いし、酒もうまい、侍らすネイチェンは綺麗、カネも閑も持て余しである。だから貴族は堕落するしかなかなかった。

 そういう立場になると、彼らを世話する奴隷たちは、支配者からから見れば人間ではないのだ。何をやってもいいのだ。その考えが西洋人の根底にある。その遺伝子が支配した西洋人は、後年、アジア・アフリカを植民地にして、現地人を略奪し、殺しまくった。それに対して彼らに罪悪感などない。だって神様がキリスト教徒以外は人でないのだと言いたのだ。彼らには免罪符があったのだ。

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 閑の意味

 そしてまともな人は学習する。「スカラー」とは閑という意味で、閑だから考えることができて哲学が出来る。哲学者とはスカラーである。スクール(学校)もこの派生言語で、閑だから学習ができる。貴族は労働してはいけないのだ。

 私も若い頃は、奴隷のように働いて考える間もなかった。しかし今は、年金生活で、閑なため考えることができる。夢も見ることができる。幸せである。日本では固定の奴隷制度がなくてよかったと思う。

 第二次世界大戦前は、アジア・アフリカでは植民地にされ、奴隷扱いされた人が多くいた。その点を忘れてはならない。今、グローバル経済主義がその奴隷制度を復活させている。そんなことにも思いを馳せる。

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身閑夢亦安養心

 私は12年前のポンペイ遺跡見学を思い出し、馬場恵峰先生の生き方である「身閑夢亦安養」に思いをはせた。

 贅沢飽食でなくてもよい、金が無くてもよい、美女に囲まれてなくてもよい、自身が閑(のどか)で、夢を抱き、心を安らかに養う状況が幸せなのだ、と。

 そんなにがさついてどうするの。そんなに急いで何処へ行くの。

 どうせ我々の行先は浄土である。

 「閑」とは「門」に「木」と書く。自分の人生(門)に植えた木が大きくなるように、気長に夢を見よう。木は一日では大きくならぬ。毎日毎日、少しずつ成長する。それが宇宙根源の理である。

 

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  石畳におちんちんのマーク

Img_1437s  娼婦館の近辺

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  娼婦館  快楽の壁画

Img_1440s 娼婦館  快楽の個室

Img_1441s 娼婦館  快楽の個室

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風呂場

 当時、火山の熱を利用したサウナや温泉が整備されていた。立派な大きな浴室が設置されている。壁にはモザイク画が掲げられ、当時の華やかさが偲ばれた。

 

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横断歩道

 街路には横断歩道が飛び石で作られている。道が雨で水没しても、濡れずに道を渡れるように用意されている。

 また馬車が通れるように飛び石の道路設計である。当時の車輪跡がくっきりと残っている。ポンペイでは2000年前から、道路も時間が止まっている。

 

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鉛の水道管

 鉛の水道管がポンペイの街の中に張り巡らされていた。高度な都市計画である。鉛の容器は鉛害がある。当時はその鉛の害を知らず、多くの人が亡くなっていた。脳が侵された人も多くいたようだ。

 ローマ帝国では水道管に鉛が使われていたため、慢性的に鉛中毒者を発生させて衰退の一因になったという説がある。鉛の毒性は、脳と肝臓に多く蓄積し、他の臓器や組織にも広く分布する。体内に入った鉛は、酵素のチオール基(SH基)と強固に結合し、種々の酵素の働きを阻害する。特に造血組織でアミノレブリン酸脱水酵素のSH基に結合して貧血を起こす。また貧血症状とともに激しい腹痛や神経症状を示すポルフィリン症を引き起こす。

 

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水飲み場

 あちこちに水飲み場が設置されている。当時のポンペイの裕福さと文化の高さが現れている。

 

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Img_1452s こうやって飲むのだとガイドさんが実演


円形闘技場

 2万人が収納できる円形闘技場が設置されている。ここで剣闘士達の決闘を見物していた貴族たちが思い起こされる。ローマから遠いこの地でも、ローマのコロシアムと同じものが用意されていた。当時、最大ローマ帝国の片鱗がうかがえる。

 

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パン屋さん

 当時は、無発酵の小麦でパンを焼いていたようだ。ポンペイには80軒ほどのパン屋さんが確認されている。当時のパンはモッチリとしていて、主食として食べ応えがあったようだ。

 

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居酒屋

 酒の器や果物、料理品の器がおかれ、市民はここで食事や、テイクアウトをしていた。今と同じような風俗である。

 

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モザイク画

 裕福な豪邸には、床にモザイク画が設置されていて、富の象徴であった。貴重なモザイク画は、ポンペイ古代博物館に展示されて、当時の文化の高さが偲ばれる。

 

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神殿の構造の巧みさ

 神殿の柱をみて、その高度な建設技術に感銘を受けた。2000年前の技術である。台形の形を組み合わせて、強度をます工夫がされている。

 

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Dsc09968s 馬場恵峰書

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2022-07-04  久志能幾研究所通信 2425号  小田泰仙

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