マイ経典を書く
自分は自分教(おだ仏教)の教祖である。あなたが豊田さんならトヨタ教である。その自分の信念を書き出せば、それはマイ経典となる。今まで自分が正しいと思って行動してきた規範を書き出すだけである。それは親や師から学び指導されたことだ。その教えられた行動で生きてきて、地獄に落ちていないなら、それは間違ったことはない証である。親や師の後姿から学んだ薫習の成果である。それが立派な生きた経典である。
仏教徒のたしなみ
人間として人に迷惑をかけない。人と比べない。人に尽くして、自分も幸せになる。たったそれだけの教えでもマイ経典である。
企業での経典なら、経営理念であり、家の教えなら家訓である。自分の経典がマイ経典である。
パブロフの犬
その逆に毎日、一方的にテレビからの洗脳放送を聞かせされ続ければ、考えることもなく、軽薄な信徒が出来上がる。無意識にファーストフードにありつくようになる。酒を飲み、煙草を吸い、飽食に走れば、後はがんになるのは自然の流れである。そうやって毎年、37万人が癌で死んでいく。がんを発生させる食品を売る会社は、テレビ局には大事な広告主なのだ。テレビ局は、信徒に美味しい食品のCM(経典)を聞かせねばならぬ。CMを見る方は、まるでパブロフの犬である。
自分のあるべき姿
毎日、自分の有りたい姿を目に見えるかたちに書き出すことを続ければ、段々とあるべき姿に収束していく。それがマイ経典である。
ありたい姿を何回も書いていれば、そのことを何回も熟慮することになり、洗練された姿になっていく。書いてあれば、それが脳に刻み付けられ、そういう人間に向かって成長していく。
何が分からないか
分からないことを紙に何回も書いていれば、自ずと答えは潜在意識が出してくれる。何が分からないかを明確にすることが学びである。分からないことを自覚することが真理への第一歩である。自分は全能の神ではないのだ。分かるようになっていく過程が自分の経典である。
十篇読むより、1回書いた方が悟りになる。だから百回でも千回でも万回でも書いて、悟りに近づこう。
書いてこそ
毎日、エッセイ(ブログ)を書いていると、右往左往しながらも一つの方向に行き先が定まってくる。それも修行であろう。それは私にとって読経であり、写経である。自分のあるべき姿を書けば、それが規範として身を引き締めざるえを得ない。
馬場恵峰書
2022-03-26 久志能幾研究所通信 2343号 小田泰仙
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