自分を治める者
虚空蔵菩薩とは、広大な宇宙の無限の智慧と慈悲を持った菩薩という意味である。そのため智慧や知識、記憶といった面でのご利益をもたらす菩薩として信仰されている。
「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるという修行を修した行者は、あらゆる経典を記憶し理解して忘れることが無くなるという。もともとは地蔵菩薩と虚空蔵菩薩が対になっていたと思われる。
空海が室戸岬の洞窟御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったという。また、京都嵐山の法輪寺では13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという行事が行われている。(この項、Wikipedia 2014/9/22)
求聞持聡明法
忘れることは人間の徳性である。忘れない人とは、神であり、人でなし。1979年頃、私も仕事で悩みを持ち、人生に迷っていた。ある新興宗教の教祖著の『密教入門(求聞持聡明法)』(角川選書)を読み、それに嵌りかけたことがある。しかし物理的に凡人が、真言を百日間かけて百万回唱えるという修行が出来るわけがない。冷静に考えると、記憶を絶対に忘れないとは、人間でなくなることである。過去の嫌な失敗談を何時までも覚えていては、地獄である。今まで何回、嫌なことで死にたいと思ったことか。それが人間の特性として、忘れるから良いのであって、何時までも覚えていることは決して善ではない。
当時は天中殺も流行した時代である。この新興宗教の手法を盗用して、オウム真理教が勢力を拡大して、地下鉄サリン事件を起こした。有名大学出の若者が堕ちていった。頭が良い人は、楽をして成功を手に入れたがる。人とは愚かな存在で、歳を取らないと己の愚かさに気がつかない。人は愚かな事をしてみて、初めて愚かな事をしてはダメと気づく。
還暦後の数年間、国家試験の受験勉強で100万遍の繰り返し(ウソ?)をしても少しも記憶力が高まらず、嘆いていたら、夢の中に来宅された虚空蔵菩薩様からのお告げがあった。
「親愛なるブルータスよ、頭が良くならないのは、修行不足でも、悪い星の下に生まれたせいでもない。長年の悪食の因果なのだ。」
真因
10数年に及ぶ悪食(揚げ物、大食、スイーツ、間食等)で、脳の毛細血管の内壁にコレステロールのカスが付着して、脳の血の巡りが悪くなっていた。その表面的な現象が高血圧、記憶力低下である。このままでいくと、脳梗塞や心筋梗塞、認知症になる寸前であった。原因が分かれば、対処療法ではない真の治療ができる。食欲を制する者が、自分を治める。
捨てる菩薩行
慈悲とは、仏教において慈悲とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きである。他の生命に楽を与えるとは、持てるものを分け与えること。浄土に旅立つときは、何も持っていけない。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。持てる自身の宝を捨てる修行が菩薩行である。
ものを持つから執着心が生れ、汚れ、腐り、腐臭を出す。金もおなじである。人が生活すれば生ごみが出ると同じである。お金だって膨大にあり過ぎると腐ってくる。そうなればウジみたいな輩がまとわりつくてくる。
お金はお足だから、金を足止めすると、金が腐ってくる。世の中に感謝の気持ちを込めて還元してあげれば、お金を稼ぐ仏様を連れて帰ってくる。
人生80年、どんな人間も何時かは浄土に行く身である。色即是空、空即是色、人生は一瞬の色仕掛けの映画である。一瞬の後(僅か80年後)、は空になる。だからこそ、有意義な色を出すべきだ。
宇宙旅行
お金を使うのにも体力と労力がいる。金があり過ぎると正常な判断ができなくなり、金の使い道がないからと、宇宙旅行などの愚行をする輩まで出てくる。そのお値段は1050万円〜22億円とか。それで社会にどういう貢献ができるのか。もっと有意義な使い道がなかったのか。なんと虚しい色であることか。色即是空、を実例で学ばされた。
慈悲とは
仏教において慈悲とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。一般的な日本語では、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」 の気持ちを表現する。
慈悲は元来、4つある四無量心(四梵住)の徳目「慈・悲・喜・捨」の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である。
慈はサンスクリット語の「maitrī」に由来し、「mitra」から造られた抽象名詞で、本来は「衆生に楽を与えたいという心」の意味である。
悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である。大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」と称する。
これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである。
漢訳大乗経典を用いる仏教では、慈と悲を含む四無量心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁である。いわば慈悲心の生起する理由とその在り方をいう。
衆生縁とは、衆生を対象とする慈悲心である。有情縁とも言う。
法縁とは、すべてのものごと(法)は実体がなく空であると知って、執著を断じてから起こす慈悲心。
無縁とは、何者をも対象とせずに起こす慈悲心。それは仏にしかない心である。
この三縁の慈悲とは、第一は一般衆生の慈悲、あわれみの心、第二は聖人(阿羅漢や菩薩の位にある仏)の起こす心、第三は仏の哀愍の心である。
この項、wikipedia(2022/2/11)より編集加筆
松本明慶大仏師作 虚空蔵菩薩
2022-02-11 久志能幾研究所通信 2301号 小田泰仙
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