暴走運転手と未知なる自分の対話
どんな車よりも構造が複雑で、運転が難しい車とは、「自分」という名の車である。一生の運転者は自分である。
2006年5月28日 明徳塾で 馬場恵峰師談
最近、私は自分の内面との会話を毎日、1時間以上かけている。未知なる自分との対話である。過去の資料を見直し、当時の自分と対話している。それは内観である。
「で、今のあんたならどうするのか? 今は何をしたいのか? 本当に欲しいものは何か?」と毎日自分という運転手を問い詰める。そこに未知なる自分が出現する。
未知学び
一日の運転をする前に、朝は志を確認するため仏前でお勤めである。昼に写経をして生きかたを確認する。夜は無事に生きられた一日を感謝して眠りにつく。現役時代は、そんな時間的な余裕もなく、暴走運転の日々であったと反省する今日である。
実際に車を運転する場合は、「三貨車」で運転するごとくに慎重に、である。少し油断をすると自分という車は暴走する。暴走を防ぐため先頭車にナビの経典(戒め)を乗せ、自分は中央車に乗り、欲望という貨車を引っ張って走る。ナビ経典の指示通りに運転すれば、暴走はしない。油断すると欲望という貨車が先頭に出て暴走する。シェイクスピア製のムスタング(じゃじゃ馬ならし)は、運転が難しい車である。
馬場恵峰書
2022-01-30 久志能幾研究所通信 2289号 小田泰仙
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