松下幸之助翁を感心させて
(危機管理65)
昭和45年(1970年)、まだ松下電器(現パナソニック)が成長途中であった時期、T氏が、松下電器の住宅関係の子会社(現パナソニックホームズ)に、家を販売店社屋として貸す契約を結んだ。その契約書は、経営の神様と言われた松下幸之助氏をして「こんなえげつない契約書は初めて見た」と言わしめた代物であった。当時、社長の松下幸之助氏は、松下の子会社約200社の賃貸の契約書の全てに目を通していた。当時、松下電器はまだそんなに大きな会社ではないが、松下幸之助は、何年も所得番付一位で経営の神様とは言われていた。
借家の契約条件
解約金 6年未満の契約解約は敷金より5割差引(普通は2割)
敷金 240万円
家賃 月額20万円(当時、医者でも年間200万円の給与の人は少ない)
T氏はこの敷金で材木を敦賀まで買いに出かけて揃え、大工として自分でこの借家を建てた。そして借家業として事業の礎を築くことになる。
◆ 経営の神様からの声
松下幸之助氏は子会社が契約した200通の賃貸の貸し店舗の契約書の全てに目を通していた。子会社の店舗の賃貸契約書は専務のサイン迄でよいので、そのまま通ったが、松下幸之助氏が「こんな契約書をつくる本人に会いたい」と言い出した。さすがの経営の神様も松下電器の専務がサインをして、押印をしてある契約を覆しはしなかった。
社長の松下幸之助氏からT氏に面会の申し出があり、現地の子会社である滋賀ナショナル住宅機器販売会社の中堀社長や専務が滋賀県のT氏家に車で迎えに来て、大阪に向かった。車内では、迎えに来た中堀社長が、「社長の私でも松下幸之助氏みたいな偉い人には会えない」とかの話になったとか。
大阪の松下電器本社で、松下幸之助氏はT氏に、「なぜ、こんな契約書を作ったか? どんな育ちをしたか? なんで今の仕事をしているか? 家庭の状況はどうか?」等の質問を立て続けにした。さすが経営の神様の質問である。
T氏は、「現在は(当時)6~8%で金利が回っている。その状況で企業として資金を回すなら、年15%利益が出る運営をしないと会社として、機能しない。そのためには3年で投資資金を回収する必要がある。そのため、家賃の額と契約破棄の場合の違約金額を設定した」と説明した。
また、大松下とはいえ(当時のT氏は、松下がそんなに偉い会社になるとはまだ認識していなかった)、借りてすぐ借家を出られては、家主が破産の憂き目にあう。それを考えての「5割」の違約金設定の契約であった。実は、T氏は「大」松下電器を信用していなかった(!)。松下さんもずいぶん軽く見られたもの。
T氏は幸之助さんから、「それだけしっかりした考えなら、納得できる。がんばりや」と言われた。当時、T氏が40歳前で、松下幸之助氏が65歳くらいの時である。
帰りに金時計と高価なウイスキーをお土産にもらって、帰路についた。京都で接待をうけて、その時の豆腐料理がうまかったと回想している。
T氏の危機意識
当時、T氏の手元には貸す家屋はなく、土地だけの状態でナショナル住宅と契約をした。親戚一同からは「一個人の立場で、大松下と契約するのは無謀だ。うまくいくはずが無い。やめておけ。失敗したら土地も全部取られてしまうから、そうなったら一族の恥さらしだ」の大反対が出たが、敢えてこの事業を進めた。この背景で、その契約書はT氏の危機管理意識があって作られた。
T氏は、正直な話、学校の出来は悪かった。なにせ遊んでばかり居たから。しかし、勉強ができるのと、実社会で知恵を使って仕事ができて成功する能力があるのとは違う。勉強は知識を憶えること。実社会では知恵を使いこなすことが要求される。T氏は正規の学校に入れなったので、夜間の建築科を出て、大工になった。
T氏は、自分の身は自分で守るとの危機意識をもって生きてきた人である。石田退三氏の「自分の城は自分で守れ」と全く同じである。その危機意識が、戦後の時代、裸一貫から身を起こして、現在は一族の中で一番成功していると要因と言える。
契約書
保証人の今井氏は、松下電器株式会社の専務
2021-12-06 久志能幾研究所通信 2230号 小田泰仙
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