「人生の閉じ方」を決める
言葉にも出会い(2/2)
人は、人とも出会うが、言葉にも出会いがある。それに啓発されて人生が変われば、それがご縁である。
「終りが来ることはわかっています。しかし、目の前の音楽に、決して終りがありません。極限というものがまったくないのです。ベートーヴェンやシューベルトの声が聞こえてくる限り、私はきっと、感激続けるでしょうし、発見し続けるでしょう。そして私は変わらず弛まず、ピアノ前に座り、鍵盤の上に手を置くのです。」 室井麻耶子氏談『サライ 2021年秋号』小学館
私は室井さんの言葉に感銘を受けた。言葉との出会いも、人と出会う以上の出会いである。私はこれに感化を受け、次のように人生の閉じ方を決めた。
「終りが来ることは分かっている。息をしている限り、目の前に道がある限り、決して人生修行の歩みを止めることはない。極限というものもない。お釈迦さまの教えが聴こえる限り、私は精進の道を歩き続ける。お釈迦様は死に接して、弟子たちに「だた精進をせよ」とだけ言い残された。
私はこれからも多くの人に出会い、夢を追い求め、人とのご縁に感激をし続けるだろう。私はあいかわらず、写経で佛道を学び続けるだろう。自然は声なき経を奏でている。経は人生の舞い方を教える。
大きな夢でも、千里の道も一歩から。歩き始めるのに遅すぎることはない。希望を持ち、目標を立て、宇宙根源の理に従って進める。
偉大なる仏を信じ、己が仏として振舞う。己が自分教の教祖として精進する。信徒は己一人で良い。それを50年続ければ仏になれる。できなくても来世で続きをやればよい。
馬場恵峰書
2021-09-22 久志能幾研究所通信 2157 小田泰仙
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