人生を閉じる前の闘い、一生モノと異星人の選別
私には人生の終わりがうっすらと見えてきた。そのため、身近で接するものを入手する時、残り人生を価値あるものにしてくれるか、そうでないかで峻別するようになった。ビデオ番組でも映画でも、それを見て自分の人格向上につながるか、情報が豊かになるかで判断して選択している。厳しく峻別すれば、その分、人生を閉じるまでの時間が豊かになる。
だからくだらないビデオソフトやテレビ番組は、最初から除外している。ビデオソフトでも最初の5分間を見て、「見る価値無し」と判断したら、即削除である。続けて見れば、時間が勿体ない。残り時間がエイリアンに喰われてしまう。
雑誌やネットの記事も同様である。最初の題名とトピックセンテンスを読んで、それで読む価値ありや無しを「審判」している。全部の記事を読んでいれば時間が足りなくなる。読んですぐ理解できなければ、著者に読者が理解できように書く能力がないのだ。要は著者の頭が悪い。そんな記事は読む価値がない。時間の無駄である。
私はホテルに泊まっても、まずテレビの電源は入れない。先回、愛知県がんセンターの特別室(一泊3万2千円で高級ホテル並み)に1か月間、入院したときも、テレビの電源は一度も入れなかった。死との闘いの最前線に身を置かれると、軽薄なワイドショーばかりのテレビなど見る気も起きない。
病院待合室のテレビで流しているワイドショーなどは、思考の穢れになるので、席を移動してテレビが見えない位置で考え事をしている。下手にそういう番組を見ると洗脳されてしまう。
「もの」という名のエイリアン
私は新しい「もの」を入手する時、それを死ぬまで手元に置くに値するかを考えて入手している。「もの」には、品物だけでなく、人物もお店もソフト(映画等)、イベント、雑用、場、時間さえも含まれる。「もの」とは全て己の時間を侵略するエイリアンなのだ。その侵略が、お互いの価値を高めてくれれば良いが、そうでない場合が多い。だからこそ、選別が必要だ。
気に入って長く使えば、買い直すための時間、新たに選択するための時間が節約できる。だから高くても良いものを買えば、結局お得なのだ。
エイリアンに喰われた人
10年程前、店子の奥さんが亡くなり、契約更新のため店子の本宅を訪問した。その時、その家ではテレビがつけっぱなしになっていた。私は大事な話の最中なのにテレビの音が耳障りであったので、主人に苦情を呈した。そうしたら、「妻が亡くなり、一人で家にいると寂しくて仕方がないので、テレビをつけっぱなしにしている」という。結局、お客の私がいるのに、テレビの電源は切らなかった。
要は、その老人はテレビに洗脳された状態である。テレビという「もの(エイリアン)」に取りつかれたのだ。それでは人生の暗転があるのみである。人生時間という「もの」が食いつぶされている。本人は気にならないので、幸せである。エイリアン(宣伝企業)の思うつぼである。まるで麻薬中毒で自殺していくようだ。そんな「もの」を取り込んではダメである。
名画・名品
名画、名品と呼ばれる芸術品が美術館に展示されているが、私から見て名画に相当する作品は皆無に近い。私の「名画の基準」は、終生そばに置きたくなるような作品である。作品をみていると、心が癒され、励まされて、力となるのが名画である。棺に一緒に入れてもらい、火葬場で灰となって欲しくなる作品が名画・名品である。
下世話的に言えば、捕まってもいいから盗みたくなる絵を名画と言う。幸いなことにそんな名画には美術館で巡り合わなかったので、今も逮捕されずに暮らしている。私は世界の美術館の80館以上を回ったが、そんな名画には出会えなかった。いくら名画で値段の付かないような「モナリザ」を家に飾ろうとは思わない。いくら名画の誉れが高くても、100号もあるバカでかい絵を我がウサギ小屋に飾るわけには物理的にできない。いくら高価で儲かると言われても、西洋古典の暗い絵は、和室には似合わないし、家の中が暗くなる。人生が暗くなる。
2021-09-24 久志能幾研究所通信 2159 小田泰仙
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