長崎原爆、恵峰先生の運命を変える
2012年12月、馬場恵峰先生は大村市制70周年記念日中友好書画交流展で、長崎の原爆に関わる漢詩を展示された。
亡き母の魂と佛の計らいで五高(後の熊本大学)がある熊本に行き、長崎の原爆被爆を避けて生かされた。長崎大学に行った学友は原爆で斃れた。その深根を虚心に静慮して勉学に励み学友の冥福を祈る、とある。
大村市制70周年記念日中友好書画交流展 2012年12月14日
師は学友を長崎原爆で失った。本来なら自分も長崎大学の学生として、学友と共に原爆で死んだはずである。恵峰師の当初の志望校は長崎大学であった。それが学校からの指導で、五校(後の熊本大学)に「学校の名誉のためだ」として変更させられた。恵峰師はそれにしぶしぶ従った。学校として、進学の成果を調整していたのだろう。今でもよくある話である。それが恵峰師の命を救うことになる。
長崎原爆
2021年4月11日 馬場恵峰先生を偲ぶ会での映像
師は学友の死に接して、今後の人生は、学友の分まで精一杯生きようと決意をする。師の生き方が変わったのだ。
人生は不条理である。恵峰師より優秀であった学友は原爆で死んだ。残された恵峰師は運命のめぐり合わせに、従うしかなかった。
恵峰師が医学部を目指したのは、父の意向もあり、陸軍大学に進むと人殺しをせねばならぬので、敢えて医学部を選択した。当時の将校(軍事教練で学校に駐在)からは、執拗に陸軍大学に行くことを勧められたという。それを振り切っての医学部進学である。
戦争が終わって、その呪縛が無くなり、師は当初の希望通りの大阪大学の文学部に編入進学することになる。そこで万葉学者犬養孝教授にであい、万葉集の世界を学ぶことになる。犬養孝教授は、昭和天皇に万葉集の進講をされた学者である。
このめぐり合わせを恵峰師は、亡き母と仏様の計らいの深根を虚心に静慮して勉学に励み学友の冥福を祈ると、漢詩を読んだ。
「天之機緘不測」(菜根譚)
天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできまい。「だからこそ心機一転、日々大切に、年々歳々、生き活かされる人生を大切に、余生を正しく生きよ」と恵峰師は常々力説されていた。その原点は長崎原爆を避けることができた、天の計らいである。
天から与えられたものが、学友が死を以て恵峰先生に与えたなら、精一杯生きるしかない。それが恵峰師の求道者のような生き方の原点であるようだ。だから結果として、恵峰師は94歳まで現役として活躍し、学友の分まで生きたと言えるだろう。師の活躍ぶり、世への貢献量は、人の2倍,3倍以上である。恵峰師は与えられた運命に従って生きた。与えられた命を精一杯生かすことが、新たな運命を拓くことを示してくれた。
2021-08-13 久志能幾研究所通信 2118 小田泰仙
著作権の関係で、無断引用を禁止します。
コメント