釈迦如来像の人相学的な考察
自分が面談する相手の顔に、全てが書いてある。自分の人生時間を失わないために、面談相手の顔を観察せよ、服を熟視せよ、態度を俯瞰せよ。言動を考えよう。付き合うその人が、自分の人生を左右する。だからこそ、真剣に相手の人相を観察しよう。人相学は、統計学の学問である。怪しい占いではない。だから私は意識して、相手の人相を観察して、人間学を研究している。
半世紀も人間稼業をやってきたなら、体験学習的に人相学が体にしみ込んでいるはずだ。本能的に、その人物像が分かるはずだ。強欲な人間は、強欲な顔をしている。だらしない人間は、だらしない顔をしている。人間関係で失敗するのは、その本能が教えてくれている情報を活用していないからだ。
半世紀も人間稼業をやってきたなら、己の行動と考えが、己の顔を作ってきたはずだ。リンカーンは「40過ぎたら、己の顔に責任を持て」と言った。
如来とは、かくの如く来たりしもの、という意味である。仏さまとして、あるべき姿とお顔が如来様である。自分も人格者を目指すなら、人格者としてかくの如く来たりし顔を造るべし。
釈迦如来座像
松本明慶先生作の釈迦如来座像のお顔は端正である。お釈迦様のお顔であるので端正は当たり前である。松本明慶先生作の釈迦如来座像は慈悲に満ちた眼差しで、思わず手を合わせたくなる。
松本明慶先生作 釈迦如来座像 総高さ40cm 『佛心』松本明慶工房刊
写真掲載は松本明慶仏像彫刻美術館の掲載許可を得ています。
某教団の釈迦如来像
2013年頃、私がG経営研究会で知り合った社長に勧誘され、入団しそうになった某新興宗教団体がある。その教団の釈迦如来像を人相学的に観察すると興味深い。その唇はぶ厚い形状である。唇は生命力を表す。厚い唇は生命力に溢れ、物欲性欲も強いとされるので、その仏様のお顔は上品ではない。また上唇の厚みが下唇よりも薄く、全体のバランスが悪い。これは我が強いことを表している。私の昔の上司がこの唇のタイプであった(私は苦労をさせられた。言い出したらきかない性格であった)。上に反った唇のカーブも不気味である。
目は少しつり上がっている。その目は、何か信用を置けない雰囲気を与える。垂れ目のタレレントの萩本欣一さんは憎めない親しみを感じる顔相であり、欣ちゃんの垂れ目がそれを表している。この仏像の目とその表情からは、ありがたい眼施をされているとは思えない。
鼻柱はは太い。その鼻柱は強欲さを感じさせる。二重顎(三重顎?)は肥満ぎみの証である。食欲を自制できていないのか。ほうれい(鼻と口の間)が短いので、あまり良い人相とは言えない。ほうれいの長い人は長命といわれ福相である。頬のふくらみもなにか異様である。私は冷たい印象を受けた。耳の形と大きさも意味があるのだが、なにか異様である。
全体的なお顔の印象が、東大寺の大仏や明慶大仏師作の仏像に比べると不気味である。ありがたみがほとんど感じられないのは私だけであろうか。お釈迦様のお顔であるので、端正であるはずである。それが感じられない。
その教団の釈迦如来像は、キンキラキンの金箔仕上げで、分厚いまぶた、分厚い唇等と、日本人の私には違和感を覚える。そのお顔の造りはインド人、中国人系である。浄土では金とか物欲とは無関係の世界であるが、黄金の釈迦如来像ではあまりに俗世間的である。
危機管理上で、その教団の仏像の写真掲載を控えます。
仏像はその国の文化の顕れ
仏像や宗教はその国の文化なのだ。その国が醸成した思想や文化がそのまま宗教に反映されてその象徴として仏像の姿に現れる。厳しい砂漠の自然が、厳しい掟のあるユダヤ教を生んだ。目には目を歯には歯を、である。そういう戒律で縛らないと生きて行けない自然環境である。温和な自然の中で生まれた仏教とは、環境が異なり、違った雰囲気を伝えている。同じ仏教でもインド、中国の仏教と日本の仏教とは大きな差が出てきている。それが仏像のお顔に表れる。それが文化の差の表れなのだ。
日本の宮廷文化 京都・御所 著者撮影
2021-05-24 久志能幾研究所通信 2033 小田泰仙
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