「追悼写真集 河村義子先生に音楽道を學ぶ」最終校正中
標記の写真集がほぼ完成して、最終校正をしている。表紙は東山魁夷が「道」を描いた場所の写真を選定した。
表紙説明
東山魁夷画伯は近くの牧場に泊めてもらい、日の出前の朝もやの煙る時刻(朝4時前?)にこの構図をスケッチした。この土地は本土で最東端に位置するので日の出時刻が本土では一番早い。昭和24年(1949年)ごろの終戦直後でモノも食料も交通機関も貧困であった当時に、この東京から遠いこの場所に4度目にこの地を訪れて、この絵を描いた。画伯が1941年にこの地を最初に訪れたとき、頭の隅にこの構想が生まれていたようだ。10年の歳月の間、その温めた構想を具現化した。その間に徴兵があり、両親の死があり、敗戦があった。その背景でこの絵は生まれた。画伯の魂の遍歴が透けて見える。
この「道」は昭和25年の日展で特選に選ばれ、戦後まだ混乱していた日本社会で、日本の明日を不安視していた人々に希望を与えた。
この「道」を河村義子先生が歩んだ音楽道と自分の歩いた人生道に重ねて、義子先生の足跡を振り返る。
はじめに
河村義子先生が亡くなられてこの2020年12月で2年が経つ。この書は、河村義子先生の追悼写真集である。当初、もっと早く世に出す予定であったが、私が癌を患い、その後の経過が良くなく、また新型コロナ禍の影響もあり、完成が遅れた。
河村義子先生とのご縁は、不思議なめぐり合わせであった。「天之機緘不測」(菜根譚)、天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできまい。
先生の御父君の内藤信吾先生は私の中学時代の英語の先生であった。
大学卒業後、私は三河地区に就職した。その定年後、大垣に帰郷しなければ、先生とのご縁はなかった。前職の会社の合併がなければ、定年後、三河で骨のうずめることになったであろう。それでは先生とご縁がなかったはずだ。
また1974年に起きたピアノ騒音殺人事件がなければ、定年後、猫足のピアノを買うこともなく、河村義子先生を紹介して頂くご縁もなかった。
私がカメラの趣味(プロです)がなければ、演奏会用の撮影機材をそろえることもなく、馬場恵峰師の書の出版をしていなければ、この追悼写真集もできなかったであろう。
先生の突然の病死がなければ、私の癌の発見も遅れて、今頃、私は世を去っていたと思う。
この連綿としたご縁の不思議なめぐり合わせに、ご先祖に手を合わせる日々である。今、私は大病を経て、生かされた命を大事にして生きている。河村義子先生が癌を明らめ、最後の5年間を精一杯に生きた生きざまを最後の教えとして大事にしている。その最後の5年間にご縁があったことに感謝である。
「だからこそ心機一転、日々大切に、年々歳々、生き活かされる人生を大切に、余生を正しく生きよ」の馬場恵峰師の言葉を噛みしめている。感謝。
2020年12月9日 小田泰仙
東山魁夷画伯作「道」 ed:587/1000
2020-12-11 久志能幾研究所通信 1858 小田泰仙
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