「浦島太郎物語」とは我が人生物語
浦島太郎が龍宮城で、乙姫様から酒池肉林の接待を受け、楽しく時間を過ごすと、時間が無為に超特急で過ぎていった。童話では、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」と書かれるのは子供の教育上で、ぼかした表現である。実際の大人な世界では、酒池肉林、キャバレー遊びの事で、人生の欲望に満ちた遊びの世界のことである。
人によっては、家族団らんで過ごした何気ない日々の生活が、最期の時を迎える時、それが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々であったとなるのだ。平穏無事な生活とは贅沢極まりない幸せなのだ。ある時、親が倒れて、その団らんのひと時が、地獄の日々に暗転する。実際はその平穏無事な日々が極楽であったと後になってから回顧するのだ。毎日の贅沢三昧の食事に飽きて、お茶漬けが御馳走と感じる時が、贅沢な日々の暮らしが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」であったと悟ると同じである。
大垣市長の立場なら
己が大垣市長の立場なら、部下や出入りの業者が自分の「市長という名の権力」に平伏し、おべっかいを使い、自尊心をコチョコチョとくすぐるので、己はルンルン気分で過ごす。それが、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々なのだ。自分が市長でなければ、人気もないし、人望もないので人が寄り付かない。だから乞食と市長は3日やれば辞められえない。
その19年間に時間は無為に過ぎた。浦島太郎物語のように、20年目で目が覚めて玉手箱を開ければ、故郷の大垣には死に絶えた大垣駅前商店街が立ち並んでいる。大垣駅前の亀の池には、死んだカメがミイラのように並んでいる。そのカメ(華名)が、自分を龍宮城の大垣市長の座に運んでくれた。市民の多くは東大出というカメ(華名)に騙されて投票した。それは名ばかりの死んだカメであった。過去の知識の記憶力だけで生きてきたカメであった。知識だけでは現代経済には通用しない。現代の激変する社会で、都市の経営には知恵が必要だ。今の市長には経営能力がない。恨めしや夢の大垣物語である。
母の教えの「玄関に造花のように死んだもの(生なきもの)を飾ると、その家は衰退する」を私は信じている。造花には精気が感じられないのだ。造花から陰気を受ける。造花を見て家の主が元気になるわけがない。だから私は自宅玄関に造花を絶対に置かない。
大垣市は、その生なき置物を大垣駅前のカメの池に陳列している。縁起でもない。恥さらし、不気味である。置物のカメを置いた理由は、「生きた亀は、その管理に金がかかる」という大垣市役所の言いぐさである。それは市の職員が吝嗇な市長の事を考えて忖度した結果である。だから大垣は没落した。
大垣駅前のカメの池の置物 2019年1月18日撮影
終着駅近くで
ふと気が付いて玉手箱を開ければ(定年後や親が死んだ後、ふと人生を振り返ると)、老いた醜い自分が鏡に写る。目はかすみ、髪の毛は薄く、シミが増え、頭は回らず、呂律も回らない老いた自分を発見するのだ。己の歳を考えると、平均寿命まで、いくばくもない。親の死という最後の教えが「あんたも何時か死ぬのだよ。命と時間を大事にしなされ」であった。
人生の最盛期を酒池肉林に埋没した人生で、何が残ったのか。親はとうの昔に死に、妻が去り、家はローンが破綻して競売にかけられ、子供が己を避け、仲間も多くが死に、竹馬の友も死んだ。回りの人たちは自分から遠ざかっていく。それが浦島太郎の物語の教えである。他人ごとの物語ではない。浦島太郎の物語は子供用ではなく、人生をさ迷う愚かな大人を諭す寓話なのだ。
桃太郎の鬼退治物語
桃太郎の鬼が島の鬼退治物語は、人生の上り坂で活動する昼の物語である。鬼とは自分の劣等感、僻み、マイナス思考、煩悩である。己の内に潜むもう一人の己(鬼)を退治すれば、人生が開けるとの教えである。
昼と夜の物語、プラスマイナスゼロ
浦島太郎物語は、人生の夜の物語である。自然界では、プラスがあればマイナスがある。人生でも、どこかで落とし前を付けないと、物理学上で、計算が成り立たない。宇宙根源の理である。だからこの二つの物語は、多くの教訓が示唆されている。俗世間を知らない子供には理解不能な寓話である。
玉手箱を開けて
浦島太郎の役を演じて、玉手箱を開けてしまったら、人生の終焉である。私はその玉手箱をうっかり開けてしまって、あわてて閉めた。しかし玉手箱から出た煙の直撃を受けて(?)癌になってしまった。しかし冷静にその煙の成分を調べて(真因を調査して)、生活習慣、心を入れ替えて、なんとか今を生きさせてもらっている。神仏に感謝です。
2020-11-16 久志能幾研究所通信 1826 小田泰仙
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