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2020年9月 6日 (日)

余命宣告 余生は死語 

 余命1ヶ月と宣告されたら、楽しいことをやって過ごせばよい。享楽的に過ごせばよい。誰も文句を言わない。

 しかし余命2年なら、その過ごし方を考えねばならぬ。享楽的に過ごせるのはせいぜい1ヶ月である。それより長いと、時間を過ごすのが苦痛になる。いくら楽しいことでも、1週間もそれに没頭すると、地獄のような辛さがでてくる。いくらテニスが好きでも、釣りが好きでも、将棋が好きでも、そればかりやっていると辛くなる。好きな趣味は、たまに、また仕事の息抜きでやるから楽しい。

 金があって、毎日毎晩飲みに歩いても、心の満足は得られない。何のために飲んでいるのか。それで自分の魂はどれだけ成長するのか。どれだけ人が喜ぶのか。酒が、体を痛めつけている。体が悲鳴を上げているが、肝臓は我慢の臓器で耐えて声を上げない。肝臓が声を上げた時は、手遅れの状態である。

 私は何度も酒で意識を失って救急車を呼ばれたことがある。私の体が、アルコールを受け付けない体質であることが分かったのは、還暦後である。それ以来、完全禁酒とした。

 

旅立ち

 金を持って三途の川は渡れない。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。全て置いていく。飲む打つ買うだけの人生では、死ぬ間際に後悔するだろう。誰からも感謝されず、世を去るのは辛かろう。何をするため生まれていたのかと。ご先祖はそんなために己をこの世に遣わしたのではないだろう。そのためには、やるべきことをやってから、旅立ちたい。

 余命宣告をされてから、決断に躊躇することが少なくなった。やって見て、ダメなら引き返せばよいのだ。大した話ではない。やるだけやって、後は野となれ山となれ、という心境に達した。

 

仕事は菩薩行

 人は、死後、集めたモノでは評価されない。生前に、与えたモノだけが評価される。仕事とは、やればやるほど奥が深く、やっていて楽しくなる人の修行である。仕事とは、人に与える布施行で、菩薩行である。佛になるための修行である。楽しくないのは、命を賭けていないのだ。人が喜んでいないのだ。人が喜ぶかどうかで、それが仕事であるか無いかが判別できる。

 舟を置き、橋を渡すも布施の檀度なり。治世産業固より布施にあらざることなし。(修証義)(檀度:布施の事)

 

余生はない

 頂いた命の意味を考えて、その命を全うするために、第三の人生を生きたいと思う。人生で余った時間などないのだ。私は「余生」を、死語として最後まで現役として生きたい。

 私も昨年初にがんの手術をして、医師から余命2.5年を宣告された。だからこの命を、子孫のため、世のために使いたいと思う。残された時間を有効に使いたいと、走り回っている。時間は命なのだ。

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 馬場恵峰書

Photo

 馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集「報恩道書写行集」

  久志能幾研究所刊  

2020-09-06 久志能幾研究所通信 1734  小田泰仙

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