終活 戒名決定、墓誌に刻み、朱を入れる
2020年6月5日(大安)、私の戒名を刻んだ墓誌をお墓に設置した。終活の最終章である。
2019年10月12日、癌の手術後半年が経ち、体調も落ち着いたので、手術前に菩提寺より提案のあった戒名の候補2つの中から、一つを選定して、墓誌に刻む段取りをした。手術前に葬儀の段取りをしたとき、戒名の提案も受けていた。
2019年10月29日、馬場恵峰先生宅に出向き、墓誌に刻む名前の揮毫をしていただいた。
馬場恵峰先生 墓誌の揮毫中 2019年10月29日
その後、いろいろとトラブルがあり、結果として1年以上もかかって墓誌の完成となった。結局、2015年に建立したお墓の墓誌は、3回も作り直すこととなり、死ぬ準備も大変であることを体験した。おちおち死んでなんかいられない状態となった。
学び
このトラブルでの学びは、「此の世で絶対ということはない。人は間違える。」である。真実は「間違ったまま、知らずに進展していることが多い。知らないのが華。」である。要は「後は野となれ山となれ」である。その真実を知り、それを修正する力が己にあるかが問われる。今回は、ご先祖の力で、それを軌道修正できたことを有難く思う。普通の人では、この修正ができなかったと思う。これもご縁である。
名前、戒名
現世の名前は、両親が子供にこうあって欲しいと名付けた願望の名前である。親が自分の境遇を省みて、子供に希望を持ち、付ける名前である。ところが往々に、子供はその名に見合わない生き方をする人が大部分である。
それに対して戒名とは、引導を渡す菩提寺の僧侶が、来世で佛になるため仏道を修行をする己のために付ける名前である。現世の生き方を見て、こうあるべきとの「戒め」の名前である。戒名は、親が付けた名前の一字を取り、己の生き方に見合った一字を住職が付加して戒名とする。
院号
院号とは、引導を渡す僧侶が、来世で己のために建ててくれるお寺の名前である。院号のお寺は、自分専用のお寺なので、少々、お金が必用だ(?)。厳格なお寺では、お金を出しても、院号を頂けない場合もある。それは故人の問題ではなく、子供がどれだけ信心深いかを、お寺がみているようだ。
私が観察する所では、ぶっちゃけた話、故人の子供が、日頃、お寺が各種の寄付を募った場合に、真面目に寄進をしているかで決まるようだ。お寺さんも現金なもの、よくその故人の子供の人の行動を観察している。
応急処置の戒名
普通の人は、葬式の時に故人に戒名を授かるが、それは応急処置である。正式には、生前に、住職がその人と打ち合わせをして、戒名を決め、受戒会の儀式をするのが正式である。
朱を入れる
生前に墓誌に戒名を刻む場合は、本人がまだ生きている証として、戒名に朱を入れる。その朱も墨の朱である。安いやり方ではペンキの赤で色付けするが、ペンキでは石にしみ込んで、後からその色が取れないというトラブルがある。安い石屋に頼むと、そのトラブルが発生するようだ。ご用心。
戒名に朱を入れた墓誌
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戒名前、戒名後
戒名を授かると、あの世で生きる(?)ために、今後の人生は、あの世での予行練習の日々となる。戒名に恥じないような生き方を目指すようになる。それで生き方に張リができたようだ。それで、安易に人生を過ごすことなく、正しい生き方となる。おちおち死んでなんかおられない。戒名を生前に授かることは、良く生きる為、良く死ぬために良いことである。
2020-06-07 久志能幾研究所通信 1621 小田泰仙
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