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2020年3月

2020年3月 4日 (水)

連絡 休載

身内に不幸がありましたので、1週間、ブログの更新をお休みします。

2020-03-04  小田泰仙

2020年3月 3日 (火)

迷った時の決断方法

 決断をしないのは最大の過ちである。しかし「決断をしないという決断」も大事な決断である。だから私はその決断の可否を下記の基準で決めている。

 私はまだまだ未熟で、今まで多くの判断ミスを繰り返してきて、痛い目に逢ってきた。判断を誤まって悲嘆にくれる時、多くの本を読み、そこから得た決断法のまとめが下記である。今でも全ては正しく決断出来ないが、下記は少しでも間違いの少なくなるための私の決断マニュアルである。

 

 1 宇宙根源の理にならった決断を

    枝葉末節のことで決めない

    美しい決断を(美学の追求)

    闇から光のある方向への選択を

     今が闇でも、一歩でも光のある世界に近づく選択をする。

 2 未来に重きをおいた決断を

    今はマイナスになっても、将来にプラスとなる道に

    広い道より狭き道へ(安易な道を避け)

    常にベストを求めて選択。妥協をしない。

    自分が成長できる道を選択

 3 時間に重点を置いた決断で

    努力よりも選択に時間をかけて

     間違った道で努力をしても無駄になる。

     狂った新興宗教団体でいくら努力をしても無駄である。

      最大の努力をして絞首台にのぼった若者も多い。

     それと縁を結ばないという選択と決断が重要だ。

     ブラック企業も悪縁の知人も新興宗教団体と体質は同じ。

    即決は不要だが、早い時期に決断をする。

     決断の先送りが最大の過ち。

     ひとまず決めて、間違っていれば即修正する。君子豹変。

 4 横並びよりも、自分の価値観を大事に

    仁義礼智信に叶う方向に

    人として恥ずかしくない正道を進み

    嫌われても良心に従い

    お金よりもご縁・経験・元気・報恩が得られる道を選ぶ。

 5 自利よりも利他の観点での決断を

    人生は与えたものしか返ってこない。

    世の中や人に与えても、返ってくるのはその十分の一。

              与えた分の十分の九は、人生の授業料である。

    しかし与えないと、ゼロしか返ってこない。

    それこそが、死ぬときに後悔する最大の悔いとなる。

Dsc09255s       馬場恵峰書

 

2020-03-02 久志能幾研究所通信 1497 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年3月 1日 (日)

スウェーデンから見た「飽食の国・日本」

家庭料理

 1985年8月末~12月中旬、機械の納入で4か月間スウェーデンVOLVO社に出張した。現地滞在中に数度、職場の人から、夕食に家庭に招待されたことがある。私としては晩飯を食わせてくれるというので、お花と日本のお土産を持ち、(遠来のお客さん用の豪華な食事を)期待して、タクシーを飛ばして飛んで行った。

 しかし、その晩飯は日本でのそれとは大分趣が異なっていて、戸惑ってしまった。出てきた料理は、それこそパンとチーズとハムといった極めて質素な夕食であった。そこの家の小さな子供もパン、牛乳、ジャムとヨーグルトだけの食事をしている。普通日本で、遠来の客がくるとなれば、それこそ豪華な料理でもてなしそうな風潮がある。多分私でもそうする。

 これはこの家だけの特例かと思ったが、その後数回別の家庭にも招待されたが、状況は同じであり、いつも出てくるのは質素な夕食であった。聞くところによると、これは英国でも同じ状況であるそうだ。たぶん欧州全体にあてはまるようだ。質素だから、歓迎していないのではなく、アットホーム的な歓迎で、彼らが会話を楽し んで、それがお客のもてなしであることは良く分かった。

 

パーティの場合

 ところが晩飯でなく、パーティがあるからと言われた場合は話が別で、その場合は豪華なスウェーデンのバイキング料理が並び、高級なヮインが出されることとなる。クリスマスも近い12月の日曜日、アランダー家にオルソン夫妻と一緒に招待された。その時は、高級ワインが抜かれ、奥さんの手作りのバイキング料理が所狭しと並んだ豪華なパーティであった。欧州では、晩飯とディナーとパーティの違いを認識して出掛けることが必要だと痛感した。

 

日ごろの質素な食事

 この事は、この国のほとんどが共稼ぎである事情と、楽しみの少ない厳しい冬の自然環 境においては、大きな楽しみは会話であるとの認識からきている。共稼ぎであるから、食事はできるだけ手間をかけない風潮もあるようだ。税金が高いので、共稼ぎでないとやっていけない。1994年現在、製造部長のアランダーは、1985年当時、朝 9時半頃の休憩時間にパンとチーズとコーヒだけの質素な朝食を職場で取っていた。それもその職場の半数がそうしていた。彼らは質素に生活して、会話を接客の技術として楽しむ術を知っている。我々日本人の様に、物量作戦で遠来の客人をもてなすのと、精神的なもてなしと、どちらが文化的か、本当のもてなしか、と問われると辛い返答となりそうだ。

 この家庭招待時に、アランダーの子供から日本人のお客様へ、と日本の情景を描いた絵を贈られた。そこにはエンペラーが日本刀を掲げて、日の出を背景に立っているクレヨンの絵である。こういう温かいもてなしは嬉しいものだ。たかが子供の絵ではあるが、私はこの絵を今も大事 に保管している。(次の絵)

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  贈られた絵

 

工場の社員食堂

 我々出張者は、昼食をVOLVO工場の社員食堂で取っていたが、ここで興味深い事実は、毎木曜日の昼食メニューが、大豆スープとパンケーキだけの質素な食事であることだ。日本人の味覚でなくとも、これが実に不味~い。これを彼らは黙々と食べている。「不味くないのか?」と聞いたら、「美味くはないが、食べれないほどではない」という。これはスウェーデンの伝統で、節約の精神を続けるための昔からの習慣であるそうだ。朝夕の質素な食事と比較して、日本の食卓の豪勢さを見る時、日本は贅沢な「飽食の国」だと感じた。

 

2020年の眼

 以上は1985年当時の感想であるが、現在2020年の日本社会の食文化を俯瞰すると、如何に日本が飽食の限りを尽くしているかに思い至る。この飽食・贅沢三昧が、認知症、ガン、糖尿病の増加の原因であることは明白だ。

P10702501s   馬場恵峰書

2020-03-01 久志能幾研究所通信 1496 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。