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2019年11月14日 (木)

人生駆け込み乗車は禁止。何を死に急ぐ?

今日という日は、残り人生の最初の日

   チャールズ・デイトリッヒ

 

 人生の目的地は死である。一日一日、残り人生は少なくって行く。どんなにあがいても、人生120年である。それを意識しないから、準備が疎かになって、人生が無為に過ぎていく。金を稼ぐのが目的の人生に没頭するから、人生の目的が何であるかに思い至らず、金の奴隷人生で終わっていく。会社の仕事がないと、日々、生きていけなくなる体となる。それは人間の人生ではない。

人生では、時間は十分にあるのだ。しかしその準備をしていないから、土壇場になって慌てるから、人生の駆け込み乗車となる。そんなに慌てて三途の川の渡し船に乗らなくてもよい。

 己は何のために生を受けたのか。それを考えていないから、日々の雑用に追われるだけの人生となる。金儲けに走って、いつしか本来の人としての生きる目的も果たさず、究極の目的地である死に着いてしまう。

人は時間なぞ、幾らでもあると思い、今日が最期の日かもしれないとは思わない人が大多数である。

 

駆け込み乗車が出来ない体

 私は、大病をして体力がなくなり、駅で走って電車に駆け込む技が使えなくなった。つくづくと老いと病後の体力の減少を痛感している。

 しかし電車に乗るのにしても、準備をして余裕をもっていくと、待つ間に買い物ができ、目的地に行く過程を考えることが出来る。余裕で特急電車に乗ることもできる。

私は大病をして、人生駆け込み乗車の愚を悟った。それよりも人生の特急電車にのって、無駄な雑務と無縁の人生を考えたい。慌てれば、人生の三途の川を渡るための電車が満員電車になって、座れない。それでは、辛かろう。日々の生活の追われては、人生はおしまいである。人生の駆け込み乗車では、本来の夢の実現は、叶わない。

人生でも、ゆっくりと人生の目的を見極め、余裕をもってご縁の電車にのればよい。目的地(死)は同じである。何をそんなに急いで、目的地に行くのか。人生時間はいつも赤字である。人生は、その赤字幅をいかに小さくするかである。

 

2019-11-14  久志能幾研究所通信 No.1398  小田泰仙

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