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2019年4月16日 (火)

がんセンターでのお見舞い礼儀

 今回、愛知県がんセンターに一月余も入院して、お見舞いに関することで、身に染みて感じた思いが下記である。

 

お見舞いの非常識

 病院や自宅に、お見舞いのため、二人、三人と集団で来る人がいる。お見舞いを受けるほうは、複数の見舞い客では、受ける方はその分、気を使い疲れるのだ。ただでさえ、手術後やガンという病気で、心身疲労困憊な状態での面会者との対応なのだ。なぜ一人で来れないのか。お見舞いは、お付き合いや義理ではないのだ。がんセンターでの面会は、死を意識した魂の交流なのだ。

 

死後の準備

 今回は私も死を意識して、スタジオで遺影を撮影し、葬式、火葬、死後50年間の法事の事前手配と支払い、遺産の処理、遺言状、死の場合の連絡先を準備して、戒名を準備して、2019年2月8日、愛知県がんセンターに入院した。お墓は4年前に建立した。冷静に処理して、死を受け入れる準備を万端にした。

 

会話内容の微妙さ

 入院、手術、余命の件でメンタルで微妙な時に、見舞いの相手により話す内容が微妙に異なる。特にガンという病気である。ある人に話したいことがある。それを話せない人が、その人と同席していれば、話せない。それが分からないなら、見舞いに来る資格はない。これは人間性の問題である。

 

関門

 そのがんセンターの病棟は東と西に分かれているが、入院中の私でも、リハビリで病棟内を歩く時は、自分の病室のあるエリアしか歩けない。それは「プライバシーの問題で、歩いてはいけない」と言われた。病室に掲げられた名札がプライバシーなのだ。それなのに赤の他人を病室に許可なく連れてくるのは、人間性が疑われるのだ。がんセンターでのお見舞いは、普通の病院のお見舞いとは違うのだ。

 

不敬のお見舞い

 ある人は私と全く面識のない人(運転手)を連れてきた。それでは面会人に、言いたいことも言えない。本来、愛知県がんセンターでは、病室の前にナースステーションがあり、そこで面会人のチェックが行われる。事前に、看護婦が、面会人が病人に面会するかどうかの意志を確認してからしか、面会人は病室に入れない。それをその許可を得ずして、赤の他人を連れて入室するのは非常識である。特にガンというデリケートな病気の患者に不敬である。その人の人間性が問われる。

 

義理のお見舞い

 ある人は、私の病気を知り、知人のAさんが名古屋に帰ってきたら、一緒に自宅にお見舞いに来るという。何故、すぐにお見舞いに来れないのか。お見舞いにくるというのは、単なる義理の外交辞令ではないかと勘繰ってしまう。私の見舞いに知人の同行は関係ないではないか。誰かを誘わねば来れない人など、見舞いに来てほしくない。

 

虚構のお見舞い

 日ごろ懇意にしている人たちには、隠さずに私の病名を話し、愛知県がんセンターに入院すると言ってあった。その人たちは、お見舞いに来なかった。ある人は、お見舞いの来ると言っていて、来なかった。期待していたわけではないが、当方は死を意識して入院して構えていた。その人がお見舞いに来ないので、その人の人間性を見極め、今後の付き合いを見直すことにした。

 絶対に来てくれるはずの人が来なかった事実は、悲しい衝撃であった。その人は私が思っているようには、私のことを思っていなかったのだ。数年、数十年間に及ぶ付き合いは、何だったんだと愕然とした。この時になって、今までが虚構の交流であったことを思い知らされた。人が弱っているときに、会いに行かなくて、何時行くのか。

 

戦争状態

 私にとって、その人は人生の敵なのだ。少なくとも親身になって自分を心配してくれる人生の仲間ではないのが明確になったのは悲しいことだ。今までが陽炎のような付き合いであったのだ。今回のガン手術は、私には人生の戦争であった。それで白黒が明白になった。

 戦争状態で、助けに来ない人は敵である。それは故渡部昇一先生が、国際情勢の解説でよく言っていた論理である。ロシアとの戦争で、イギリスは日本を陰で助けた。だから日英同盟が生まれた。東日本大震災の時、日本の不幸を喜んで援助しなかった韓国、中国は、だから敵なのだ。人や国の本性は、病気や戦争、非常時に現れる。非常時に誰が助けてくれて、誰が助けてくれなかったか、よく見ることだ。

 

2019-04-16   久志能幾研究所 小田泰仙

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