人生の回数券
寝ていても 走りゆく 夜汽車かな
どこへ? 浄土へである。寝ても覚めても、我々を乗せた汽車は、冷酷に西に走り続けている。その人生という乗り物の行き先は、「死」である。人は、人生のレールの上を、ひたすら死の終着駅に向かって走る汽車に乗っているようである。人生の汽車の乗車券は、回数券であって、定期券ではない。人生で使える回数券の総数は決まっている。一度使ってしまうと二度と使えない。時間という回数券を全て使い切ると、死が待っている。
回数券の有効期限
勉強するにも、効率的に勉強できるような回数券は、若い時しか使えない。歳取ってからでは、その回数券は期限切れで使えない。暴飲暴食や体を痛める習慣で乗車すると、回数券を余分に出す必要がある。
その回数券も有効期限付きで、時間の使い方次第で、その有効期限が書き換えられる。人生の免停(大病)があると、期限が短縮される。自分は、日ごろ、有効期限を早くする悪さをしていないだろうか。それは身内である37兆個の自分の細胞を虐めること。それを罪と言う。暴飲暴食、不摂生、夜更し、運動不足、ファーストフード、スナック菓子、清涼飲料水….
最後のあがき
最期になって、その回数券の枚数が足りなくなったから、「金はいくらかかってもいいから、回数券を売ってくれ」と医者に泣きつき、拒否されると、「お前は藪医者か!」と罵っても手遅れである。
安いというだけの理由で回り道をしての買い物は、時間と言う回数券の無駄使いである。そんなことをすれば、人生の残り時間は確実に減る。お金は節約できても、人生最期の土壇場で、「時間が足りないで症候群」に陥る。その時には、時間はお金で買えない。お金で時間を買えるのは今だけ。
冥途行き最終列車
最近は三途の河を渡るのに、舟ではなく汽車になった。時代の流れである。三途の川を渡る列車に乗るには、お一人様1回限りの最終回数券が必要である。
最近は、三途の川へ行くのに、病院のベッドの上で、それがそのまま夜行寝台(死んだ)列車に変わって、それで浄土に逝く。病院の病室がそのまま死の寝台車となり、ベッドが棺となる。夜行寝台列車は、棺を乗せて、西に向かってひたすら浄土を目指して走っていく。
理想の死
死ぬ理想は、現役のまま、前のめりで斃れることだ。今はそれが難しい時代である。ちょっと油断すると、多方面から病魔が襲う。日本人の多くは病院で、多くの管を付けられて、安らかでない死である。時には暴れないように、ベッドに縛り付けられての病院暮らしである。毎年、日本人は、100 万人が生まれ、100 万人が死んでいく。毎年、99万5千人がガンになり、日本人の2人に1人がガンで死ぬ。理想的な死は、自宅での老衰の死だが、そんな幸せな人は1%しかない。そうなるように、親から頂いた命を大事にして精進をしたい。
終末医療での死。病院の病室が夜行寝台列車の客室のようだ。西の空が夕闇に包まれていく。観音菩薩様のような優しい看護婦さんが、死を見守ってくれる。(名古屋の某病院にて)
三途の川行き最終電車
あなたの乗る電車は、鈍行? 特急電車?
上り電車? 下り電車?
始発? 最終電車?
自由席? 指定席? グリーン車?
単線? 複線?
乗り換えは何回目?
終着駅への到着時刻は、自分の生き様で変わる。途中の成果も回数券の使い方次第。
めぐり逢い
めぐり合いは一瞬で決まる。早すぎず遅すぎず。しかし二度とは巡ってこない。それは命と命の巡りあい。命の存在が奇跡なら、巡り合いも奇跡である。還暦を過ぎてやっとそのことに気がついた。日暮れて途遠し。親から頂いた命を大事にしよう。
仏法ご聴聞の心得
一つ、この度のご縁は、今生初めてのご縁と思うべし。
一つ、この度のご縁は、私一人のためのご縁と思うべし。
一つ、この度のご縁は、今生最後のご縁と思うべし。
青山俊董著『道元禅師・今を生きるとは』より
馬場恵峰書。明徳塾の会場で、この書を見付けて、思うところがあり、即決で入手した。2013年
『命の器で創る夢の道』p259より
2019-03-07 久志能幾研究所 小田泰仙
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