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2019年1月

2019年1月12日 (土)

両界曼荼羅

 曼荼羅は、サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は“本質、中心、真髄などのもつもの“を表し、仏教では仏の悟りとその世界を意味する。特に密教においては、聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表した図をいう。

 

曼荼羅が意味する人生

 曼荼羅は日本密教の教えの中心ともなる大日如来を中央に配して、更に数々の「佛」を一定の秩序にしたがって配置した人生の俯瞰図である。「胎蔵界曼荼羅」、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面である現象世界として捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面である精神世界として捉えている。こういう概念を1300年も前に曼荼羅の図に表した創造者の知恵には、畏敬の念が起こる。

 

佛様の意味

 胎蔵曼荼羅には様々な姿の佛の御姿が表されている。一人ひとりの佛にも意味がある。各々の佛が曼荼羅の世界でその場所のお役目を果たしている。自分が歩む人生で、与えられた時代とその与えられた場所で、佛としてのお役目を果たすのが、自分の使命である。人は生きているだけでも、佛の価値がある。己の周りの人は全て仏様である。それを教えてくれる曼荼羅図は神秘的だ。

 曼荼羅の図は、ネットの画像検索で見てください。

2019-01-12 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月11日 (金)

記事一覧公開

1000回の記事リストを公開します。

 添付ファイル参照: 「記事一覧_久志能幾研究所通信-2019-0110-ed」

 _20190110ed.pdfをダウンロード

 

記事が多いのでカテゴリーから探して下さい。

総分量は、A4版で約3500頁あります。

webでは、「久志能幾 & “記事名”」で検索すると、ヒットします。

カテゴリーは、冒頭の文字で分類をしています。

 

0_english edition(英語版)

  海外の音楽家に読んでもらおうと英訳しました。

ap_飛行機

        私は50年来の飛行機マニア

b-佛像彫刻・大佛師松本明慶

c-馬場恵峰師の写真集・言葉

 

l:は人生論関係

 l-五重塔を照らす智者の言

          馬場恵峰師の人生訓

 l0_命の器で創る夢の道

           夢とは魂の言霊である。私の人生論。

          火事に遭遇して得たご縁で、夢が仕事を創ると悟った。    

 l1-吾が人生の師天王

    私の人生論。多くの師から学んだこと。

   l2_志天王が観る世界

    私のご先祖探し、家系図作り

 l3_書天王が描く世界

       自家のお墓造りのお話し

 l4_詞天王が詠う老計・死計

    私の終活

 l5_佛が振るチェカーフラグ

    私の終活

 

m:は音楽関係

 m-大垣からウィーンへ架ける六段

    戸田伯爵夫人の記事。ウィーン旅行記

 m-音楽道

   河村義子先生の話を中心に

 m-ピアノ騒音殺人事件

   私の音楽履歴 。その出発はピアノ騒音殺人事件。

ma:はマネジメト関係

 ma_ダイエット

   私が7か月で14キロ痩せた実践記録。己の体の管理です。

         自分の体が管理できなくては、人生は豊かになれない。

 ma_危機管理

         私が経験した危機管理の実例集。前職は危機管理の責任者です。

   ma_時間創出1001の磨墨智

   私の時間哲学。

   ma_ネッツトヨタ南国の経営

         私がほれ込んだネッツトヨタ南国の経営方式の報告

 ma_人生経営・会社経営

 ma_経営診断

   経営コンサルタントとしての診断

 ma_経営診断♠インプラント

    私はインプラント手術を手術2時間前にドタキャン。その内幕   

 ma_経営診断♦社是

    経営理念から企業を診断

 ma_極楽運転道

    テストドライバー経験の眼で運転ノウハウを公開

 ma_生活VA

   いかに無駄を省いて贅沢をするかのノウハウ

 

o:は大垣関係   

 o-四季の路

   松尾芭蕉の奥の細道に模した「ミニ奥の細道散歩道」の紹介

 o-大垣の文教

   江戸時代から続く大垣の文化・教育の歴史紹介

 o-大垣の歴史

 o-大垣まつり

 o-大垣の歴史

 o-大垣を良くする階

   大垣市への提言。大垣市行政への批判。

 

書道・テクニカルライティング

   文書を効率的に書くノウハウ。ミシガン大学で学んだ手法。

桜田門外ノ変の検証

  私のご先祖の桜田門外ノ変にまつわるお話し

美容・健康

      私が心がけている健康管理の内容

 

2019-01-11 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

人生の曼荼羅とは

 人生を俯瞰的に見ると、人生はピラミッドや高山の頂点を目指して歩む姿に例えられる。それは人生の宇宙観であり、緻密に築かれた城の石垣にも例えられる。

 

世界観

 人生の目標とする所が山の頂点なら、俗世間的に言えば会社の社長である。佛の世界ではそのトップは大日如来である。そこに達するには、地獄界、畜生界、邪鬼界、人間界、天界、菩薩の世界を経ないと到達できない。人は生まれながらに頂点で生まれるのではなく、試練・修行を経て悟りの境地に達する。お釈迦様も修行・試練・弟子の離散の地獄を見て、悟りの境地を得られた。お釈迦様は万能の存在ではなく、悩みある我々凡人と同じ人間である。また大日如来も単独では存在できない。その回りの菩薩、天、鬼がいてこそ存在できる地位である。

 

己が作り出す観念

 人生では、あるときは地獄の鬼と対面するときもある。不渡り倒産の危機に直面して、七転八倒の苦しみを得ながら進む地獄界のときもある。時には鬼となって相手に借金の返済を迫るときもある。天として(部下や会社の)守り佛として会社を自衛する四天王となるときもある。人間とは人を殺めるような鬼畜の性もあれば、童を愛する天女のような心の両面を持つ。その心は流転して無常である。すべて己の観念が作り出している世界である。

 

人間とは

 人間とは「人」と「人」の間にある「門」を毎「日」渡り歩き、悟りの世界を求めて歩く修行僧といえる。どれだけ富財宝を手に入れても、死ぬときは全て手放して裸であの世に旅たつ。それ故、人生では人に与えた価値で評価される。

 それを悟るにどれだけの失敗・恥・経験を積むかが、人生の受験勉強である。人は痛い目を経験しないと目が覚めない愚かな存在である。かの釈尊でさえその過程を踏襲された。せめて第二の人生までに悟りの「合格」世界に到達したい。そうできなかった人が、現世で幽霊の道に迷いこむ。帰らぬ過去の後ろ髪を引かれ、まだ来ぬ未来に目を向け、虚ろな目を向けて迷う生き様である。すべて人のせいにする被害者意識の人生である。

曼荼羅は己の履歴

 人生の曼荼羅に、自分の歩いた履歴が表れている。その曼荼羅の中に現れている佛に自分の宇宙観が現れる。出会うご縁は全て自分を良くしようと現れる佛様である。だから人生に無駄な縁は無く、自分以外は全て我が師である。貧乏神のコスプレで現れる逆縁の菩薩にも尊い教えがある。

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  馬場恵峰書

 

2019-01-11   久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

2019年1月10日 (木)

己は何者か

 己の実態とは何か? 己は、体と脳と魂からなる存在である。体とは脳と魂を収める単なる筐体である。病気になるとは、その筐体が故障しただけだ。その体は、脳と魂に支配される。その体は、大事に使わないと、脳と魂が十分に働けない。筐体という体には寿命がある。本能で生きると、欲望に身を任せて、その体を大事にしない。

 脳は生存本能に支配されて、利己的に働く。本能で生きると利己的、刹那的な欲望に身を任せがちである。また生物としてすべての生物には遺伝子DNAに、「生きろ」、「命をかけて同胞を守れ」という命令が刻まれている。コンピューターのPROMに焼き付けられた命令言語と同じである。

 それに対して魂は世の為、人のために利他的に働く。脳が利己的、快楽的に働くのとは対照的である。それが動物と人間を分ける境界である。その両方の使い方で、人間性が問われる。その魂は教育と自己研鑽でしか育たない。その魂は、体は亡くなっても、後進に受け継がれる。

 その魂の高低差は、大震災や暴動時での民衆の行動で、顕著な差を見せる。それが東日本大震災の時の整然とした日本民族の行動であったし、ロスアンゼルス市の大暴動で商店の商品強奪や、隣国が見せた日本の災害被害を喜ぶ姿との差であった。

 最近の経済界の不祥事を見ていると、脳に支配された動物的な輩が跋扈している。戦後、日本が米国からのGHQ洗脳教育に侵されたための弊害が顕在化してきた。日産の旧支配者ゴーン被告の顔は、どう見ても利己的で強欲丸出しで、受け入れがたい顔である。

 

己の使命

 己は何のために仕事をしているのか? それは脳が支配しているのか、魂が支配しているのか、何方の比重が大きいか自問したい。金のため? 金が十分にあれば仕事をしないのか? 人が死んでから残るものは、人生で集めたものではない。世の中に残したもの、与えたものである。

 

仕事と苦役

 「仕事 work」とは「事」に仕えて、世の為になせる業である。橋を架けるのも、機械をつくるのも、人を育てるのも世のため人のためである。そういう無形有形のものが世の中に残る。

 それに対して生きる糧を得るために動くのは「苦役  job」である。神がアダムに与えた罰である。だから西洋では、金が貯まれば、苦役から逃れて早く引退して優雅な生活に遁走する。日本の労働とは、違う価値観である。日本には働く喜びがあるが、欧米では仕事を逃れて遊ぶ喜びである。

 

仕事の痕跡

 松本明慶先生の50年間仏像を彫り続けた手に、命の軌跡が残る。仕事での書・文・絵・仕事に携われば、手・足・体にその軌跡が残る。そこに己とは何者であったかが現れている。

 河村義子先生の40年間の音楽活動を通しての社会奉仕の痕跡は、「カナデノワコンクール」、「世界で一流の音楽を楽しむ会」、「子と音」、「子と音mama」、毎年のクリスマスコンサート、定期的院内コンサート等の活動にある。それは河村先生が育てた後進に受け継がれて、これからの大垣の音楽文化を支えていく。

 私も10年後、20年後にそんな軌跡を後世の人に見せられるように、恥ずかしくない仕事を残したい。

Photo「佛師のげんこつ」松本明慶師作  松本明慶佛像彫刻美術館にて

 松本明慶美術館の許可を得て掲載しています。

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2018年12月15日 大垣市音楽堂 クリスマスコンサート2018

 演出・振付:林葉子  音楽監督:河村義子先生

 出演:林葉子バレエアカデミー

 ピアノ:小林朱音   電子オルガン:相原里美  語り:伊藤応子

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2018年12月15日 大垣市音楽堂 クリスマスコンサート2018

 子と音

   演出・振付:伊藤応子  音楽監督:河村義子先生

 

2019-01-10 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月 9日 (水)

佛様との出会い

両界曼荼羅

 人生の短い期間に出会う佛様(人)の数は限られている。両界曼荼羅では1,875尊の佛様が描かれている。それは人生で価値ある人との出会いが、物理的に2千名程度しかないとの寓意である。

 その佛様には、人だけの出会いだけでなく、病気とか事故、自然災害も含まれる。病気や事故が、その後の人生の生き方に大きな影響を与えれば、それも人生で出会う佛様である。その人からの学びには、正の場合も負の場合もあるが、それは自分の成長次第である。

 逆縁の菩薩様からも多くの学びがある。佛様が差配した慈しみの出会いである。その出会いはすべて己の責任である。そういう縁に出会うべき業をしてきた。因果応報である。この世で起きることは、全て必然である。会えば必ず別れがある。生まれれば、必ず死がある。

 

選択

 人の寿命の制限内で、出会う佛様の数には限りがある。一尊の佛様との出逢いがあれば、もう一尊の佛様とのご縁は、この世ではかなわない。選択とは一方を選べば、もう一方は捨てること。その両方を選ぶから曖昧さを生み、人生の無駄時間を生む。人生では寿命の制限があるからこそ、その出会いに緊張感が生まれる。「人は必ず死ぬ」との大前提に考えないから、時間と機会を無駄にする。

 

ご縁

 ご縁を成就するためには、時間と労力と情熱が必要である。身を清め、服相を正し、心を整えて、時間を計って、初めて一つのご縁が生まれる。それでこそ出会うべき人に、早からず、遅からず出会える。その心掛けがないから、ご縁を見逃すのだ、そのご縁が佛様である。だからこそ、出会う人、出合う機会を自分の目で厳選しないと、自分の人生価値が希釈化される。それが選択であり、決断である。縁あって花開き、恩あって実を結ぶ。

 

与える価値

 己が相手に与える価値は何か。自分が会うことで、相手の二度と戻らぬ命(時間)を奪ってはいないだろうか、自分は相手が期待している成長をしているだろうか。去っていった佛は、自分の未熟さに呆れて、去っていったのではないか。佛が袂を分かち去って行ったのは、全て己の責任である。人生では与えたことだけが、返ってくる。奪ったことは消えていく。

 

全て己の責任

 郵便ポストが赤いのも、全て己の責任である。己があの時、遊び惚けず、もっと真剣に受験勉強をしていれば、東大に入り高級官僚になり郵政次官、郵政大臣に就き、郵便ポストの色を己の意思で変えられたはずと思いたい。

 

曼荼羅とは

 曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅からなる。弘法大師が唐より持ち帰った曼荼羅を、弘法大師が晩年、金銀の単色で描いた曼荼羅は、高野山の至宝である。

 胎蔵界曼荼羅は、世の仕組みを俯瞰的に表現している。金剛界曼荼羅は、生から死に至るまで、人が佛として9つの段階を経て成仏する精神面の変遷を描いている。人が各段階の世界で精神的な修行を積み、佛となり次の世界に進む。人がその界を卒業して成仏する過程を表す。決められたステップを踏まないと次に界に行けない。

 サラリーマンに例えれば、受験地獄と大学天国を通過し、新入社員として修行の界に入り、実践の場に進み熟練の領域に進む。現場実習界、職場研修界、営業界、中堅の世界、課長職界、企画界、経営者界、窓際族の界等で、その界の修行が不十分のまま、次の界に進むとその界では浮いた存在となる。何事も順序を踏んで進まないと成仏は出来ない。みほとけに一歩でも近い界に行くことが出世である。

曼陀羅の絵は画像検索で確認ください。

 .

お礼

 お陰様で、今回で1,000回目の通信となりました。累積閲覧総数57,753です(2018年1月9日21時)。皆様の閲覧にお礼を申し上げます。私にとって一つの文書作品は、佛像彫刻作品と同じです。私は文書を書く場合、佛像彫刻を仕上げるように、何度も遂行を繰り返し、磨き上げます。見直した回数が多いほど、よき佛様が出来上がります。文書の題名は、佛像の顔です。トピックセンテンス(格文)は、佛様の眼です。佛様は眼でモノを言われます。佛像を拝むとは、自分を拝み、自分自身に対峙することです。

 私も昔の自身のエッセイを読み直し、襟を正すことが多々あります。私のエッセイが皆様の自他の幸せを考え、人生を考えるヒントになれば幸いです。

 

2019-01-09 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月 8日 (火)

河村義子先生の分身に出会う

 河村義子先生が逝去されて1週間たった2019年1月1日、友人とセントレアの「FLIGHT OF DREAMフライトパーク」に出かけた。そのショップに展示してあったボーイング707のジェットエンジンのタービンブレードカットモデルに、河村先生の面影を発見して、そのカットモデルを購入した。

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2018年1月のニューイヤーコンサート

 1年前の2018年1月13日に、ドレスデントリオと河村先生の共演の「ニューイヤーコンサート」をクインテッサホテル大垣で開催した。当時、河村先生がこの世の最後の演奏会と覚悟をして開催したとは、私には分かっていなかった。それでも開催にこぎつけるため、資金面、撮影、運営でお手伝いをできて、今にしてそのご縁に有難いと思う。そのドレスデントリオが、2018年1月7日にルフトハンザ航空機で到着するので、私はセントレアに出迎えに行った。

3dsc02821   2018年1月7日  ルフトハンザ航空機 セントレア着陸

4dsc02852   到着したドレスデントリオ

 河村先生が逝去されて1週間たった2019年1月1日、友人が当日、セントレアに行くというので、思いついてルフトハンザ機を含めて飛行機の着陸時の写真撮りを兼ねて、セントレアに出かけた。ところが、ルフトハンザ航空機は、当日のセントレア到着便はないのが分かり、撮影は空振りとなった。しかし、もう一つの来訪目的が、昨年末に開店したボーイング787の展示館「FLIGHT OF DREAMフライトパーク」の見学であったので、友人と見学して過ごして、今回のご縁に出会った。

 そこに併設されたショップで、ボーイング707のジェットエンジンのタービンブレードのカットモデルが売られていて、何か感じるところがあり、購入を決めた。値段は72,360円。残り2つの限定品だという。年初の最初の売上とかで、お店の担当者も喜んでいた。人は誰しも「限定品」「あと2つ」という魔の言葉に弱い。そのボーイング707エンジンの誕生年が河村先生の生まれ年が同じで、ジェットエンジンのブレードの役目が、ピアノの鍵盤を叩くことに重なって見えたから、ご縁を感じて購入を決めた。私が飛行機マニアであることも重なった。

 

陰の仕事

 ジェットエンジンのタービンブレードは、回転速度約10,000rpm、12時間の飛行(日本と欧州間の飛行)を年間150回するとして、その寿命が5年間として計算すると、ジェットエンジンのタービンは約5億回転して、旅客機の推力としての空気を後方に送ることになる。それで多くの海外旅行客を運ぶ仕事を陰で支えている。

 ピアノをモノにするには、一日8時間、10年間続けないと一人前のピアニストになれないという。単純計算で一秒に1回鍵盤を叩くとして計算すると、それを30年間続けると、3億回も鍵盤のキーを叩いてきたことになる。ひたすら鍵盤を叩いて、人びとに安らぎと喜びを与える音楽を世に送り続けているのがピアニストである。

 そのエンジンの製造年が河村先生の生まれ年と同じだと気が付いて、ご縁として購入を決めた。

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 川村義子先生の手 2015年1月23日

 

人知れず働くもの

 展示された目の前のタービンブレードが、人の見えないところで生きて仕事をすることの象徴のように感じた。人の目には触れず、小さな、当たり前の、繰り返しの仕事で、その長年の積み重ねが、社会に貢献していることを象徴していると感じた。飛行機の美しい着陸姿勢も、力強い離陸も、ひたすら巡航速度で飛行するのも、エンジンがひたすら回っているからできるのだ。しかしけっして表には出てこない。

 また30年前に、当日同行した友人が当時の職場で、GEからジェットエンジンのブレードを加工する機械の見積業務を私は横目で見ていた。その受注はできなかったが、私は見積用のエンジンブレードの実物を手に取って見たことをよく覚えている。それのご縁も購入を決めた一因である。

 

一燈を掲げて

 そのブレードを今日1月5日に、玄関に飾った。前衛芸術作品のようで、サマになっている。極限状態で稼働する部品には、贅肉が削がれ、極限の機能美がある。ブレードの曲面も芸術作品である。玄関に飾ってみて、見る角度によっては、十字架のように見えて、不思議さを覚えた。河村先生の家は臨済宗なので、キリスト教は関係ないが、言葉の綾で、十字架を背負い仕事をするという意味で、仕事の象徴として考えた。どんな小さいことも仕事として継続すれば、世の中に何かには貢献できる。仕事とは、ひたすら毎日毎日、同じことの繰り返し。その世の中に燈を灯す活動が集まって、大きな力となる。それが「一燈を掲げて暗夜を行く」(佐藤一斎著『言志四録』)と通じる。

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  馬場恵峰書 お手本として揮毫  2012‎年‎2‎月‎18‎日

 

2019-01-08 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

己を支え、人を支えてこそ人の道

 重き荷を背負おわされるのは、佛様からの慈しみである。重いからこそ人生を歩く力が付く。受験勉強もスポーツも、頭の筋肉、足腰の筋肉をつけるには負荷をかけないと、筋肉は強くならない。自分を甘やかした生き方では、弛んだ人生しか歩めない。人生力とは、重き荷を背負ってこそ向上する。その重き荷を遠くに長く運んでこそ人の道である。

 背負う荷が重いのではない。背負う力が弱いのだ。軽くする智慧がないのだ。遠くに運ぶ知識が欠けているのだ。頭の汗をかいて、智慧を出す能力を鍛えてこそ、人生を力強く歩める。負荷をかけないと、極楽トンボの生活に陥り、認知症への道をまっしぐらである。持国天は国を支えている。総理大臣は国を動かしている。己は自分を支えている。天はあなたに総理大臣の仕事をしろとは言っていない。それに比べれば、凡人の持つ荷など軽いもの。己を支えるのは自分である。天は自ら助けるものを助ける。東西の教えは同じ事を言っている。

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仕事量Jは下記の式で表される。

  J=μ×W×L

     μは摩擦係数 ,  Wは仕事の重さ,  Lは運ぶ距離

μとは世間の摩擦

 μとは仕事と大地(世間)との滑り摩擦係数。仕事量ロスを減らすには、摩擦係数を小さくすれば良い。摩擦係数を小さくする技が、知識であり、智慧である。人と人との間の摩擦を減らす潤滑剤は笑顔である。苦渋に満ちた顔つきで力任せに運んでも、笑顔の智慧を使った仕事には及ばない。己が非力ならば、みんなの力を借りて智慧を出せば、大きな仕事ができる。

 一人で運ぶから大変なのだ。一人で荷を持つから、遠くには運べない。重い荷はみんなで運べば、遠くに少しは楽に運べる。笑顔があれば皆が協力してくれる。みんなで協力して運べば、重い荷も軽くなる。

 

皆の力

 明慶先生が、一人で悩んでいた岩田明彩師に言った言葉、「何を一人でもがいているんや、みんなそばにいるぞ。みんなを信じてもっと頼りなさい」。仲間は人生の宝である。身の回りには宝が一杯ある。宝が目の前にあるのに助けてもらわないのは、米蔵の前で餓死するようなもの。己の心を開き、人生の門を開けば、みんなの笑顔が出迎えてくれる。赤信号、みんなで渡れば怖くない。重い荷物、みんなで持てば軽いもの。それが組織の力である。

 人は及ばないから、少しでも良くなろうと努力をする。金も力も有り余ってあれば、努力などしまい。そうなれば堕落の道しか無い。及ばないから、みんなで足りないところを補い合ってこそ人間社会である。人に頼むのに躊躇するのは、己の我があるからである。我を無くせばうまく行く。

 

櫂の木

 「皆」とは「比」+「白」からなり、「比」とは人が並んでいる様を表し、「白」は、モノを言う意味と、人が声をそろえて言うの意味から、みな、ならぶ、とも、の意味を表す。

 「偕」とは、「人」+「「皆」で共にするから、「つよい」である。一人の人間は弱いが、皆が集まれば強い組織となる。力ある人は我を張らない。我があると揃わない。

 「喈」は「口」+「皆」で、人が声を揃えて言うで、気心が揃って和らぐの意味を表す。

 「楷」とは「木」+「皆」で、枝や幹が正しく並ぶ木の名を表す。転じて整った手本の意味を表す。曲阜(山東省)の孔子廟に子貢がみずから植えたといわれる木の名である。

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Photo_10   櫂の木の春夏秋冬

 「楷の木」が大垣市スイトピアセンター内の図書館横に植えられている。学名「トネリコバハゼ」、和名「久志能幾」と言う。中国山東省曲阜の聖廟に、孔子の高弟子貢の手植えの「楷の木」二世が、今も鬱然と繁り紅葉するところから黄連樹とも呼ばれる。この公園に植えられた樹は、曲阜聖林から採取発芽させた東京湯島聖堂内苑の樹から取り木された唯一の木で、学問文化に深い由緒をつなぐ名木である。

 この樹は戸田公入城350年(昭和60年・1985年)を記念して、大垣文化連盟が、スイトピアセンター内の公園に植樹した。封建時代の藩主を称えて植樹されるのは、戸田公が大垣の学問文化の発展に多大の貢献をされ、その威徳が未だに輝いている証である。1985年は、私が初めての海外体験としてスウェーデンに4ヶ月間の出張をした年である。

 この樹は春には緑豊かな葉を飾り、夏は蝉の抜け殻を抱き、秋には紅葉が鬱然と繁る。冬は全ての葉が落ち、まる裸となる。それは次の春に向けて内部蓄積をする姿でもある。人生の春夏秋冬を表している姿は、一つの教えである。

 

2019-01-08  久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

霊信として『「言志四録」51選訓集」』

 年末の12月25日に河村義子先生がご逝去されて、弔意の1週間ブログ休載で、馬場恵峰書『佐藤一斎著「言志四録」51選集」』(小田泰仙編 久志能幾研究所刊 A4版、64頁2800円)の出版案内を控えた。

 この本は、12月25日付けの出版であるが、最終校正で誤字脱字が見つかりその修正で、3日遅れの12月28日に、印刷完了本が印刷会社より自宅に届いた。本来、25冊は私宅、25冊は他所、50冊は九州の馬場恵峰先生宅に直送されることになっていたが、手違いで私宅に25冊以外に、恵峰先生分の50冊が届いた。それで大慌てで恵峰先生宅に転送した。

 出来た本を見直すうち、12月30日になって、河村義子先生の命日がこの書の出版日と気が付き愕然とした。これは偶然という人もいるが、私の菩提寺の住職様の意見では、馬場恵峰先生へ寂滅のご挨拶として、私の家経由で、私の代わりに九州に行ったのだと言われた。手塩かけて出版した本は、私の子供である。偶然と見えることも、実は必然のことだと住職様に言われた。河村義子先生と馬場恵峰先生は直接の対面はないが、お互い私の私費出版本を通じて旧知の仲であった。

 「神秘的な体験をするには、雰囲気と心の準備が必要だ。」(水木しげる著『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』より)

 

私の使命

 今、振り返ると河村義子先生に対する私の使命は、河村先生の遺徳を記録として残すことだと悟った。

 カメラ歴50年、文章道歴50年、科学工業英語検定1級所持(一級は日本に500人もいない)の技を持ち、ピアノに憧れを持って40年を過ごしてきて、64歳でグランドピアノを購入した人間が、河村先生とご縁ができたのは仏縁である。「人は出合うべき縁に、早からず遅からず出会う」とは、森信三先生の言葉です。

 そんなつもりはなかったが、記録をひも解くと、河村先生に関する写真はこの5年間で8600枚ほど撮影した。そのうち河村先生が写っているのは数%であるが、先生の周りの人を含めて、自然体の良い写真を多く撮影できたと思う。そのお陰で共演された音楽家達ともご縁ができた。先生に関するエッセイ(A4で4頁の作品が30通余)、演奏会のビデオが5本である。このブログ休載中に整理をして、ご遺族に贈るためにBRディスクに収めための編集をした。

 

河村義子先生の病気

 河村先生は、5年まえに病気が見つかり、手術をすると後遺症が残りピアニストとして活動できなくなるとして、延命手術を拒否され、最期までピアニストとして生きる道を選ばれた。このことは、葬儀場に掲げられたご子息の挨拶文で初めて知った。思えば、私が先生に出会ったころである。

 私は、河村先生が覚悟を決め、最後までピアニストとして生きたいとして、死病と戦っているのを知らないから、自然体で写真が撮れ、エッセイが書けたと思う。先生の死病を知っていれば、人間ができていない私は構えてしまい、良い写真は撮れなかったと思う。そのためエッセイも自然体に書けたと思う。私は、先生が死病と戦っていることを知ってはいけなかった定めだと改めて感じた。それも観音様のご意志で、運命である。

 今思うと、河村義子先生の言葉の節々に、死を予告する言葉があったが、鈍感な私は気が付かなかった。それに気が付けば、「それでは、もう小田さんではない」と、義子先生の親友に慰められた。それがせめてもの慰めである。まだまだ人間ができていないと、反省のしきりである。

 

出版計画

 今回のブログ休載中に「写真集 河村義子先生を偲ぶ」(解説は英訳併記)、「河村義子先生の想い出」(エッセイ集)、「ウィーンにかける六段の調べ」(英訳、ドイツ語、併記)を出版する計画ができた。これが河村義子先生への私の追悼と鎮魂の書となる。

 

2019-01-08 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月 7日 (月)

正しい道を考えながら歩く

 「スラスラ書いても正しく書く。漫然と習うより考えて書く」(恵峰先生)。正しい道で考えることが大事である。書道もピアノ道も人生道も同じである。河村義子先生からも、「漫然とピアノのキーを叩くのではなく、指の先の動きに神経を集中させて、考えながら指を動かしなさい」と教えられた。正しくない道で、頭を真っ白にして修行しても無駄である。宗教狂団に入って最大の努力をしても、行き先は絞首台である。

 人と会うにしても、漫然と会うのではなく、相手の行動と姿を見て考え、相手が佛として演技をしていると考え、裏に潜む考えや意図を考えたい。相手が漫然と振舞っていれば、その本心は赤裸々になっている。相手の潜在意識まで見抜かないと、己が地獄に引きずりこまれる。時として相手は獲物を狙っている逆縁の菩薩である場合もある。その出会いは一期一会。どんな出逢いにも学びがある。学ぶ気がないから騙される。相手は言葉以外に93%の情報を表情、身振り、服装から本心を伝えている。口で誤魔化しても外見や素振りを見れば、その本心は明らかである。それが人を観る目である。

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河村義子先生の指導

 仕事、芸道、人生道では、正しい道を正しい歩き方で、正しい姿勢で考えながら進まないと、誤った固定観念に囚われて迷いの道に迷い込む。良き師の指導こそが人生の宝である。人生曼荼羅では、出あう人皆我師である。

 この頁のピアノを弾いている写真を、当初、あるピアノの先生のHPから引用した。それは中学生の生徒が弾いている写真であった。それを河村義子先生が見て「手の甲の位置が低く正しい弾き方ではない」と指摘された。正しい弾き方の写真でないと間違った道を教えることになる。ネットには玉石混合の情報が溢れている。世間も同じである。正しい師について学ばないと間違った道に迷い込む。心して道に励みたい。(初稿2015年1月)

 そのご縁があって、河村義子先生のピアノを弾く手を撮影する記録が残せた。ご縁に感謝。

Photo_2 恵峰先生は考えながら三好輝行先生のお祝い色紙の末尾から筆を運ぶ。20141113

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どの指を何処まで飛ばすのか考えながら弾く河村義子先生の指運び  2015123

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馬場恵峰書     2014年の年末に書かれた。この直後、便秘で断腸の思いをされた。無事に済んでなりよりでした。Photo_4恵峰先生書 

2019-01-07  久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年1月 6日 (日)

死に支度

 今まで出会った人を振り返れば、自分という存在が分かる。泥棒を求めて旅すれば、泥棒に出会う。佛を求めて旅すれば、佛にご縁のある人に出会う。菩薩の「謦咳」に接すれば、その気が己の肌から体に入ってくる。それが人生での佛との出会いで、人生曼荼羅である。役割・資格・地位・機会等の物理的な出会いのプロセスが、胎蔵界曼荼羅で表され、精神面での出会いと成長の過程が、金剛界曼荼羅で表現される。

 

命とは

 人は多くの人と出会い、叩かれ虐め抜かれて、自分という佛が脱皮・成長しなければ次の界に進めない。「命」とは「人」が棒「一」「叩」かれる様を表している。一人では人になれない。叩いてくださる他人様あっての人である。何時までも成長しない人が、周りに迷惑をかける。人は日々成長している。己の怠慢が、成長している周りの佛に迷惑をかける。成長していないと、それが悟れない。そのために増長天の存在がある。

 

成仏とは

 今立っている界段を卒業しないと、次の界で場違いの扱いを受ける。まず今、立っている界段で、次の界に行くための死に支度をすべきである。次の界で生きていくためには前の界を殺さなければならない。それが成佛である。死無くして新しい世界は生まれない。死ななければ前世に未練を残す幽霊である。卒業するためには、最後の最期まで、現役で前向きに倒れて成佛したい。

Photo  馬場恵峰書  2006年

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 恵峰先生の教室にて  201312

 右の軸を伊勢神宮御神水の磨墨と見て即入手した。

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2019-01-06  久志能幾研究所 小田泰仙

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