第四段 老
人生での「老」とは成長という意味である。老には良い意味がある。大老、長老と経験を積んだ大人には「老」という敬称をつける。
馬場恵峰書 五重塔の正面の和歌
命の開発(かいほつ)
還暦とは、倒産しそうになった自分株式会社の立て直し、リストラクチャリングの時である。捨てるべき荷物を捨て、必要な資材を選択して積み込む時である。まず自分の体のメンテをしなくては、命の開発はできまい。
人は37兆個の細胞から作られている(以前は60兆個と言われていたが、最近の研究で改められた)。その全細胞の支配者が自分自身である。人はその細胞から作られる各器官の集合体である。八百万の各器官という仏様の命をどう開発(かいほつ)するかが、自分に課せられた課題である。開発とは、生きとし生けるものが本来持っている特性を開いて開花させる。それが仏教用語の「開発」(かいほつ)である。その細胞一つでさえ、最新の科学技術でも、生み出すことができない。それが37兆個も集まって一人を構成している。神仏の神秘さを感じざるをえない。その神仏が宿る臓器には、個体差があり寿命に差がある。その開発した才能の寿命を認識するのが、統括司令塔として自分の魂の役目である。生まれた才能もいつかは死を迎える。死なくして、新しい命は生まれてこない。それを踏まえて、自分は何を開発するかが問われている。
人間の尊厳
我々は多くの自己の持つ才能を生殺しにしている。その個々の才能も開発さすべき時期の見定めの大事である。肉体的青春の命は若い時だけである。その時の才能は自然発生的に生まれて開発の苦労は少ない。しかし時期を過ぎての開発には苦労が伴う。命の賞味期限は有限であるが、加齢してこそ開花する才能も多くある。青春が終わり、死にゆく器官を認識して、残された才能を開発することに目を向けたい。それを追い求めるのが、人間の尊厳としての義務である。
生きる修行
私の目の水晶体の寿命は終わってしまったが、医学技術の進歩のおかげで、人工の水晶体に入れ替える白内障手術で視力を取り戻すことができた。感謝である。取り戻すことの出来ない器官は、そのことを受け止めて、それでどう生きていくかが、人生の課題である。失ったものを嘆いても返っては来ない。「まだ残る未知なる才能の開発をせよ」が佛様の御心であろう。人生は、死ぬまでが持てる命を育てる修行である。
馬場恵峰書
2018-08-08 久志能幾研究所 小田泰仙
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