大村智博士講演「私の半生記」(3/6)ご縁
学校は出たけれど
大村先生が卒業の1958年は、不況の真っ只中で就職口がなく、何とか東京都の夜間定時制高校の教師になった。その競争率は30倍の難関であった。その学校では、中小企業に勤めている子が、仕事のため夜に遅刻しながらも学校に通ってくる。ある試験の日、遅れてきた学生が、まだ手に油汚れがある手で試験問題に取り組んでいる姿を見て、大村先生は、自分の怠慢さを反省して、大学院で再度勉強をしようと決心された。そんなご縁を作ってくれた夜間定時制高校の学生達である。
路頭に迷う
山梨大学で研究生活を送っていた時、東京理科大学で助教授の口があるというので、山梨大学の助手を辞めたら、東京理科大学の助教授が予定通り転出できなくなり、その口が無くなってしまった。しまったと思っても後の祭りで、先生には大失敗であった。そうしているうち、北里研究所で新卒の募集があるというので、採用試験を受けることにした。大学を卒業して7年がたっていたが、何とか2名の枠に入ることができたという。それが無ければ、細菌学の研究には入らなかったかもしれない。そうすればノーベル賞にも縁がなかっただろう。何が幸いするやら。ご縁の不思議さである。
人生の分かれ道
1971年、大村先生は米国ウエストレーヤン大学に、客員研究教授として留学する。その留学先の選定に当たり、5カ所に手紙を書き、留学先を検討した。結果として提示された中で一番年間給与が安く、給与が他の半額程度のウエストレーヤン大学を選ぶことになる。その理由を、大村先生は、電報ですぐ応じてくれたし、先に米国旅行の時、「大人物だな」との印象を受けて人間的な魅力を感じたと思ったのが、決め手となった。「給与が低い分、何か別にいいことがあるのではないか」とも思ったという。妻が「給与が一番いいところにしましょう」と言うのに従わずに決めた。
それが将来の大村先生の進路に影響することになる。正に運命の分かれ道であった。大村先生は目先の利益に囚われず、素直なご縁を選んだ。
大村先生の廻り道
大村博士が、ご縁を大切にするという姿勢で、結果として、夜間の定時制高校の先生や、山梨大学で助手の研究生活をして、人生の回り道というべき道を歩まれながら、同期よりも7年も遅れて新卒として北里研究所に入所して、技師補から出発して、今の研究成果を上げられたのは、奇跡のような経緯である。
北里研究所への入社試験合格もはたから見れば、奇跡のような出来事であった。なにせ大学卒業後、7年目での就職試験である。世に出る人は、なにか神仏のご加護があるように感じる。
阿弥陀仏のご加護
大村智先生の御尊父は、地元の願成寺の阿弥陀三尊像を守った功徳がある。地元の願成寺は武田氏の祖・武田信義公の菩提寺である。武田信義公から16代目が武田信玄である。
その寺が明治時代の廃仏毀釈の影響ですっかり寂れてしまい、尊父が青年時代に、檀家総代や村の長老たちが寺の運営費をねん出するため、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来像と脇尊の観世音菩薩像、勢至菩薩像)の売却を決めてしまったという。この仏像は平安時代末期の作で、ヒノキ材寄せ木造りの貴重な作品である。尊父はそれを聞いて、尊父が中心になり、村の青年たちで売却反対運動をして、それが功を奏して仏像は寺に残ることになった。その仏像は1939年には国宝に指定された。尊父が最も自慢にしている出来事という。
その後、大村先生の慶事の折などは、尊父は「阿弥陀さんのおかげだ」とよく言っていたという。大村先生は、尊父の影響で歴史好きになり、そこにロマンを感じるようになったという。
2018-08-17 久志能幾研究所 小田泰仙
著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。
コメント