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2018年7月23日 (月)

仕事の目的

 仕事とは、生きる目的と生きる糧の獲得である。松本明慶先生曰く「私は、みほとけを謹刻することによってのみ生かされている」。

 アウシュビッツやシベリアの極限状態では、生きる目的を持った者だけが生き延びた。生き延びるとは、ご先祖から頂いた命を全うすること。私の父もシベリア抑留から生き延びて帰国した。それで今の私の生がある。零下30度の極寒労働地、極貧の食事、劣悪な極酷の労働条件。朝,目を覚ますと若い戦友が隣のベッドで冷たくなっている。半分の戦友がシベリアの土に消えた。アウシュビッツでは20人に一人しか生き延びられなかった(致死率95%)。シベリア抑留開始の初期は、ロシア側の準備不足があり、致死率は80%にも達した。最終的には10%の致死率である。しかしその極限条件下でも生き延びた人達がいる。下記はドイツ強制収容所から生還し、その体験を記した『夜と霧』の著者(心理学者)、ヴィクトル・E・フランクルがとった行動である。

 

◇ 働ける体であるように見せる

  働ける状態でなければ、自動的にガス室行き

  常に若く見えるように、立ったり歩いたりする時は背筋をピッと延ばしていた。若く見えるように髭を毎日剃った。 最後のパン一切れを人に与えても、ガラスの破片で髭を剃ってもらった。

◇ 病気にならない     病気になれば、自動的にガス室行き

◇ 常に未来を信じる

   近い将来、講演会で自分が演説している姿を思い浮かべた。

◇ 収容所での苦しみは意味があると認識

   無意味だとすると生きることの価値が無くなる

◇ 愛する人との魂での会話

◇ 感動を失わない      

     沈みゆく太陽の夕焼けの風景に感動

◇ ユーモアを失わない

   自分を見失わない魂の武器

 

現代のアウシュビッツ

 現代は、飽食と痴呆的な環境(グルメブーム、痴呆的テレビ、ゲーム)が何者かから押し付けられ、その結果、それに起因する病気、社会風潮が蔓延し、遅延性の毒として脳と社会を蝕んでいる。それで、現在、65歳以上の15%が認知症となっている。認知症とは、実質的な死である。その人が、その人でなくなってしまう脳死なのだ。日本の現代人が、生きる目的と仕事を放棄した結果である。それで誰がその生き血を吸っているのか。

 そして日本人の精神の荒廃、脳死を表すかのように、前頁記載のシベイア戦没者慰霊の「恒久平和の碑」の説明銘板に落書きがされている。父親が関係した碑であるため怒りが湧き起こる。それを放置している小川敏市長にも怒りが起こる。小川敏市長は、今川順夫会長に「大垣市として大事に後世への遺産として伝える」と約束したのに、それの約束を反故にしている。小川敏市長は、その碑の前で、水まんじゅうギネス挑戦の痴行に舞い上がっていた。

 この落書きがだれの仕業か不明だが、つい左翼を思い浮かべる。左翼は何でも国のために戦ったことさえも侮辱する。我々の先祖を侮辱しては、国は栄えない。そうなれば国に寄生した左翼も滅びることが分からないようだ。

1 恒久平和の碑の説明パネルの落書き

 

現代の流刑

 どんな仕事にも意味がある。それの基本は、人を喜ばせることだ。世のためになること為すことだ。その喜ばせる第一の人間が己である。その喜びが無い仕事は、やっていて虚しく、虚脱感に襲われる。それを強制する人間は、シベリア流刑地の看守レベルでしかない。

 高校生が大規模小売店アピアタの駐車場入口で、岐阜地区高校野球観戦の車の駐禁の看板を立て見張っていても、誰か駐車を遠慮するわけでもなく、高校生は相手に注意する権限もなく、アピタも駐車禁止を望んでなく、誰からも感謝されず、皆から無視されて、炎天下でただ座っているだけ。まったく意味のない仕事を囚人のようにさせられている。そこから何の付加価値も生まれない。

 それはシベリア流刑囚が、墓穴を掘らされ、それを埋めて、またそれを掘り起こすという刑罰としての労働と何が違うのか。

 まだ駐車する人が文句を言うならともかく、「無視」なのだ。愛の反対は憎悪でなく無視なのだ。それが一番厳しい対応なのだ。高校生がかわいそうだ。なぜ市会議員も声を上げないのだ。

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 アピタ駐車場入り口で見張りの高校生 2018年7月22日、09:43

 当日の最高気温37度で、9時から17時までの苦役

   気象庁は7月23日に開いた緊急記者会見で、連日の猛暑を「命の危険がある暑さ。」と発表した。

 

駐車場が無い野球球場で無意味な見張り

 8000人を収納する大垣北公園球場で、市のHPには「当施設の駐車場は台数に限りがあります。大会等のご利用及び観戦の場合は、公共交通機関などのご利用をお勧めいたします。」とあり、つまり今の車社会の時代に、実質的に駐車場がないのだ。これでは、他市から来た観客に、駐車場を問われて、見張りの高校生たちも答えようがないのだ。それで、駐車禁止の見張りなど、拷問である。

 高野連も大垣市も、シベリア流刑囚に対すると同じレベルの拷問を前途ある高校生に与えている。人はどんな苦しいことでも、意味があれば耐えられる。この仕事は全く意味がない。これで大垣の未来を背負う若人が育つわけがない。一事が万事で、行政の建前と本音が乖離して、被害の矛先は社会で一番弱者に向かう。これも小川敏長期政権の無為無策から来た弊害である。

 

現代社会の洪水対策とは

 現代の高度経済社会の血流というべき車の交通循環で、その車の氾濫という洪水への治水(駐車場整備、道路整備)を放置しているのが小川敏大垣市政である。この小川市政17年間で、車の治水に対して何をしたのか。お城(新市庁舎)さえ作れば、防災対策だというのは、古代思考である。

 

2018-07-23  久志能幾研究所 小田泰仙  

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