仕事の意味
仕事とは、仕事を通して自分の能力・魂を磨くことに意味がある。仕事をするとは世のために価値を作り出すこと。その価値とは人に喜びを与えること。自分が生きていることを確認できるのは、仕事しているときだ。
「自分」という言葉は、社会全体の中の「自らの分」を表す禅語である。己の存在が、全体の中の一部であるから、利他として社会に奉仕する。それが仕事である。その反対が利己、利己主義である。利己のためにやるのは作業である。自分の利己主義としてやるから「業」を作るのだ。
その仕事が、人に命令されてやっているだけなら、また生きる為だけにやるなら、奴隷・動物と同じ次元である。それは生きているのでなく、生きながらえているのだ。
価値なき仕事を盲目的にさせられ、それに従うのは、奴隷と同じである。拒否できない高校生をそんな作業に従事させるのは、シベリア流刑地の看守と同じである。この現代社会で、それを命令すること自体、犯罪である。
無視
2018年7月22日、大垣球場で開催された高校野球岐阜大会の折、大規模小売店アピタの駐車場で、駐車禁止の看板を掲示して、一日中、その監視をさせている行為は、仕事ではない。高校生の能力向上にも、魂を磨くことにもならない。駐車場入り口で、当番の高校生の横を通る野球観戦者の家族達は、完全に高校生を無視して、高校生の魂は絶望のどん底に落ちる。
真夏の怪談
座っている高校生を横目で見る人はまだ、ましである。立哨の高校生が駐禁看板の横にいることさえ、気が付かず通り過ぎていく人が大部分である。まるで目のない白い仮面を被った亡霊が、高校生の前を次々と通り過ぎてゆく様である。真夏の炎天下の怪談である。駐車場入り口で座る高校生は、8000人も通り過ぎる観客の中で一人孤独を味わう。それが炎天下で7時間も続く。見ていて、その残酷さに背筋が寒くなる。
その「仕事」をしても誰も喜ばない。何の価値も生まない。なにせ駐車禁止と掲示しても、だから何処に駐車すればよいか、教えられないのだ。大垣市が観客用の駐車場を建設・整備していないのだ。だから人から見ればお笑いだが、本人には地獄である。だからこれは仕事ではなく、拷問である。
自分がその立場なら
もし自分がその立哨の立場になったら、どうしただろう。もし部員に立哨を指名する監督の立場ならどうしただろう。自分が己の会社で、そんなレベルの仕事を部下たちにしていないか、自問したい。
野球部員は50名から100名はいるだろう。その中から、彼はそういう選別をされたのだ。そうなった原因を反省したい。どこまで行っても、一番以外は、ビリである。自分が活躍できる世界を見つけるように、精進するしかない。そんなブラックな世界から身を引くのが最善だ。
アインシュタインの言葉
1922年、アインシュタインが来日して京都大学の学生たちと対談したとき、一人の学生が、「人間は何のために生きているのですか」と質問した。アインシュタインはびっくりしたような顔をして、「他人を喜ばせるためです。そんなこともわからないんですか」と答えた。
生きるとは仕事
生きるとは、仕事をすることだ。何もすることがない生活は惨めだ。定年後、「起きたけど、寝るまで特にやることなし」では人間でないのだ。老いても、やることがあっても、それが社会に役立つことであっていたい。
その仕事が一生涯を貫く仕事であれば一番幸せである。仕事をするから楽しいのであって、仕事の疲れは、仕事が癒してくれる。そうでなければ、それは作業であって、仕事ではない。作業とは、「業」を作ること。業を産めば、疲れるのは当たり前。仕事とは、「事」に仕えること。上司に仕えることではない。「事」に仕えると思えば、上司は単なる仕事の「おくり人」である。
人とは
社会とは人から成り立っている。「人」の文字は、お互い支えあって立っている様を表した象形文字である。「人間」とは、人と人との間で往来しながら生きている存在である。その通行手形が、仕事である。その通行手形を価値あるものにした人が大事にされる。
2018-07-24 久志能幾研究所 小田泰仙
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