« 天狗行政による大垣市の末路 | メイン | お礼 ベストテン入り »

2018年3月 7日 (水)

「佐藤一斎の街」に学ぶ

 2018年3月4日、岐阜県恵那市岩村を訪問して、言霊とは、指導者とは、それに率いられた組織の成果とは、について多くの学びがあった。

 私は岩村を明徳塾OB会二日目(4月15日)の学びの旅行先にする計画を進めている。その事前調査として訪問した。当日、11時過ぎまで、大垣市の元気ハツラツ市の状況調査をしてからの出発である。JR恵那駅で明智線に乗り換えて、現地の岩村駅に14:09に到着した。

 岩村は、幕末の大儒学者で日本の孔子とも言われる佐藤一斎の生まれた村である。佐藤一斎の書『言志四録』は、多くの志士の座右の銘として親しまれ、明治維新を成し遂げる原動力となった。『言志四録』は西郷隆盛が島流しにされたとき、この本を島流しの獄舎で熟読して、西郷の思想と人格を固めたと言われる。

01p1040317_1

ひなまつりで街中一致団結

 電車から降りた観光客は少なかったが、着いて見ると観光バスや自家用車でこの地を訪れた人が多く、街中が観光客で賑わっていた。この日は、「いわむらの城下町ひなまつり」として、美術館や町屋の殆どの玄関にお雛様の飾りが設置されて、町中で雛祭を祝っていた。その雛壇の数は53店舗中に約71セットの多さである。殆どのお店がお雛様を飾って、城下町ひなまつりを盛り上げていた。街の古くは江戸時代のひな人形から昭和初期までの作があり、歴史を感じた展示である。観光客をもてなす街の熱意が伝わってきた。

02p1040317_5

03p1040317_9

04p1040317_10

05p1040317_15

江戸末期から明治時代までの街並みを保存

 岩村駅から約1キロの道なりが江戸末期から明治時代までの町家や武士屋敷が連なり、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。商家や武士屋敷が無料で美術館の記念館として開放されている。当時のかまどや生活の道具、機織り機、蔵内部などが展示されており興味深い。

 街の中央の広場では、若い衆が雛祭として一斗樽で無料の振る舞い酒があった。私が到着した時に、何故かちょうど樽が空になり、「最後の一杯ですよ」と若い衆が声を上げていた。私も手を出したかったが、禁酒中の身のため遠慮したが、なにか損をした気になるのは、卑しい根性なのか?

06p1040317_11

07p1040317_12

09p1040317_16

10p1040317_17

11p1040317_18

12p1040317_20

14p1040317_22

『言志四録』の木板に学ぶ

 街中の7割ほど家の軒先に『言志四録』から抜粋した一句を刻んだ木板が掲げられていて、街中で佐藤一斎の遺徳を偲び観光客にその教えを伝えている。『言志四録』の言葉が軒を連ねていると、何か厳かな気分になる。街中で佐藤一斎の言葉を学んで崇めている雰囲気である。毎日、この板を眺める大人も子供も、良き教育環境であると思う。人は言霊から霊感を受け、人格向上の糧となる。

15p1040317_2

16p1040317_4

17p1040317_7

18p1040317_8

 街中のあちこちに『言志四録』の句の碑文も建立されている。岩村駅前にも、佐藤一斎の言葉の碑が建立されており、街中で佐藤一斎の業績を顕彰している。

 明徳塾OB会で訪問予定の415日には、今春スタートするNHK朝の連続テレビ小説「半分、青い。」のロケ状況のパネル展示と花の展示がされる。この岩村は、ヒロインの鈴愛(すずめ)役の永野芽郁さん故郷という舞台設定である。鈴愛(すずめ)役の永野芽郁さんは「岐阜弁は、関西弁や標準語とも違っていてとても難しい。」という。岐阜県人の私としては、岐阜弁は標準語に近いと思っていたのが意外である。大垣弁とは少し違うのかもしれない。

19p1040317_3

20p1040317_13

21p1040317_19

22p1040317_23

23p1040317_28

岩村歴史資料館

 岩村駅から徒歩で1.7kmの坂の上に位置する岩村歴史資料館は、佐藤一斎を顕彰するために建てられた資料館である。この土地には、岩村藩主の館があったが、明治14年に失火により焼失してしまった。その跡地に岩村歴史資料館が建築されている。佐藤一斎に関する展示物は少ないのが残念ではあるが、佐藤一斎の肖像画に直筆の書が書かれた軸、著書等がガラスケース内の一面に展示されている。管内は撮影禁止である。門の前には佐藤一斎の像と顕彰の碑が建立されている。

24p1040317_24

25p1040317_25_2

26p1040317_26

伝鴨長明塚

 岩村駅の横に鴨長明の塚が建立されている。何事かと説明看板を見ると、『方丈記』の作者、鴨長明(11551216)は、鎌倉を追われ遠山景簾の好意で岩村の両家に逃れて半年を過ごした後、病を得て入寂したとある。

 この地に、後に岩村藩の家老丹羽瀬清左衛門が石碑を立てたとされる。長明作といわれる木像があり、昔から夜泣き子供に添い寝をさせると丈夫になるとされ、お礼に小さなちゃんこを奉納する慣習が明治時代まで続けられた。(恵那市教育員会作成の看板より)

27p1040317_27

空き家の少なさに驚き

 「重要伝統的建造物群保存地区」の53店舗中で、「売物件」の看板がかかった空き家は1件だけあった。大垣市のようにシャッターを降ろした店が192店舗中、117店舗(61%)も連なるのとは、大違いである。同じ観光地で大垣市と岩村は何が違うのか。明智線は単線で、一日に2両連結のジーゼルカーが、15本しか走らない超ローカル線であり、岩村は過疎地の観光地である。それでも観光地として栄えている。

 

観光政策における大垣市と岩村の格差

 岩村は街中で統一した方針で、観光地として街興しをしている。ほぼ全家屋に『言志四録』から抜粋した一句を刻んだ木板が掲げている。ほぼ全家屋が、ひままつりとして玄関に雛壇のおひなさまを飾っている。53店舗中で、その数71セット。村長のビジョンで、村中で一致団結して観光客を招く段取りをしている。

 これと比較して、大垣市の観光政策を情けなく思った。大垣市は、市長のビジョンが曖昧で、元気ハツラツ市で大垣市をどうしたいのかが分からない。観光都市としての明確なビジョンが分からない。だから大垣市の外部団体の大垣観光協会もお役所仕事で熱意がなく、業者に仕事を丸投げをしている。そのため大垣駅前商店街が、元気ハツラツ市にそっぽを向き、当日に敢えて店を閉めている店主が多い。それ自体が恥さらしである。なにせ観光客は露店に行ってしまい、店を開いても儲からないから。大垣市が、市民税を使って大垣駅前商店街の営業妨害をしている。

 元気ハツラツ市で盛り上がっているのは、大垣市の外からきた業者、露店商たちである。それでどうして大垣商店街の活性化ができるのか。儲けのカネは全て市外や県外に行ってしまう。ますます大垣駅前商店街が寂れる。

 

ビジョンなき航海で沈没寸前の大垣市

 大垣市長の観光方針が曖昧のため、大垣駅前商店街を歩いても、芭蕉の句の一つもない。店も何もない水門川沿いに芭蕉の句碑があるだけである。岩村と大違いである。奥の細道を歴史遺産として登録するという大垣市の方針があるが、大垣駅前商店街と市民はそっぽを向いている。この原因は大垣市長に、明確なビジョンと実績がないためである。市長の座に座り続けるのが目的で、市長として何をやるかが全く見えない。だから商店街がそっぽを向き、大垣市は衰退の一途である。

 組織は、一人の優秀な長によって発展もするし、ビジョン無きリーダーで衰退もする。組織の興亡は、すべてリーダーの手腕にかっている。その現実の差を岩村と大垣市で発見した。

 現在、「大垣中心市街地活性化計画書」が提示されているが、これは大垣市がハコモノを作って業者を潤わすためのお役人が書いた「お作文」の言い訳書である。住民不在の計画書である。これに沿って実施しているから大垣は寂れてきた。大垣駅前商店街の店主達は、誰もその内容を知らない。この計画書は、冗長な文体で冗長にデータをこね回し、曲げた結論を出している。これでは読んでくれ訳がない。

 ビジョンには夢と希望と志がなければ意味がない。この計画書にあるのは新市庁舎の建設というハコモノだけである。大垣市長に欠けているのは「志」である。大垣に「平成の維新」が必要である。幕末に大垣藩を建て直した家老小原鉄心の再来が望まれる。

 

2018-03-07

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

Blog: http://yukioodaii.blog.enjoy.jp

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。 

コメント

コメントを投稿