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2018年3月24日 (土)

4-7.五右衛門風呂の幸せ

五右衛門風呂の定理

 日本では相手に対して与えた陰徳が、後から倍返しで返ってくる社会である。陰徳とは佛様への長期定期貯金である「積善の家には必ず余慶あり」(『易経』)が佛の御心である。その余慶を自分が受けなくても、子孫がその恩恵を受ける。それは五右衛門風呂で、温かいお湯を向うに押し出すと、回りまわって背面から自分に返ってくる現象に似ている。それが利他の精神である。足るを知らず、いくら己の方にお湯をかき寄せても、お湯は向うに逃げてゆく「利他、足るを知る」の東洋思想は、西洋の総取りの思想、短期収穫思想とは相いれない。私は西洋式のバスタブよりも、五右衛門風呂の方式で、ゆっくりと温まりたい「情けは人のためならず」とは五右衛門風呂の定理である。弘法大師の教えと眼差しには、その温かさがある。ネッツトヨタ南国の新人は、そういう温かい眼差しを向ける心を「バリアフリーお遍路の旅」研修で、体得するのだろう。

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 大仏師松本明慶作「弘法大師座像」松本明慶仏像彫刻美術館にて 

 松本明慶仏像彫刻美術館の許可を得て掲載しています。2018年3月21日撮影

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    教育資料「修身」 小田 2005年

「私」と「自分」の戦い

 「私」とは自己主張の言葉で、「自分」とは共同体での自称である。「自分」とは社会全体に対して「自らに与えられた分」である。仏教用語である。「私」とは、自己主張の総取りの意思表示である。

 人の考え方は言葉に現れる。だから言葉とは文化である。言葉には言霊がこもる。英語で「私」を表す言葉は、Iと Myself くらいしかない。それが英語圏の自己主張の文化を象徴している。それに対して、日本語では、私、自分、俺、朕、某、予、我輩、及公、手前、小生、愚生、拙者、不肖、老生、愚老、拙僧、愚禿、小職、と数多くある。日本社会は、状況に応じて自分の位置を変える大人の社会である。

 文化の違いは、同じように魚名1つをとっても、欧米と差がある。出世魚であるブリは、ワカシ(15 cm くらいまで)、イナダ(40 cm くらい)、ワラサ(60 cm くらい)、ブリ(90 cm 以上)と名前を変える。しかし英語ではyellowtail だけである。

 ネッツトヨタ南国の経営方式が、欧米でうまくいくかどうかは、疑問である。どんな手法もその国の文化、風土にあった方法がある。

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   教育資料「道と価値創造」 小田 2005年

 

農耕文化と狩猟文化

 この日本語と英語の違いは文化の違いである。欧米は、自己主張を最優先に考える狩猟民族の文化である。それに対して、日本語は、共同生活で生活を成りたたせてきた農耕文化である。共同生活が第一にあるため、話す相手に合わせて、自己の表現を変えている。自分が社会と共にある一員を表現している。その典型的な言葉が「自分」である。つまり全体の中の「自ら」の「分」の存在を表している。これは禅の言葉でもある。

 常に社会の中での自分を考える風土が、共生の思想で運営されている。そこに西洋の個人主義の経営手法が入ってきたからおかしくなった。日本の風土には、日本の風土に合った制度がある。年功序列であり、終身雇用であり、会社別組合である。

 

日本で成果主義導入の違和感

 西洋の他人を押しのけて自己の利益を主張する成果主義は、日本風土に合わない。西洋にも日本式経営はあわないのであろう。弱肉強食の世界で、アジアアフリカ諸国を植民地にして、その生き血を啜って贅沢な生活をしてきた列強諸国は、成果主義万能の世界である。負けた方が悪いのだ。勝てば、相手を皆殺しにするか根こそぎ強奪して奴隷にして働かせるのが、神の思し召しなのだ。キリスト教徒でなければ人間ではないので、何をやっても罪悪感を感じない。そこに一神教の恐ろしさがある。

 イギリスは、植民地インド経営で、19世紀だけでインド人2,000万人以上を餓死させ、虐殺したといわれる。イギリスの植民地支配は、人民の愚民化と貧困化で、反英派や独立派は徹底的に弾圧し、インド人に密告・誣告を奨励して告発されたインド人は冤罪であっても女子供でも容赦なく叛逆罪として処刑した。そんな残虐なことが平気でやれたのは、相手を人間として見ていなかっただけである。

 しかしそれが、19世紀初頭の白人社会の常識であった。その考えで植民地強奪政策を推し進めたので、その因果応報として現在の移民の氾濫、テロになって欧米を襲っている。

 グローバル経済、成果主義を発達させてきた西洋は、日本式経営は取り入れない。西洋かぶれした浅知恵の日本の経営者が、西洋文化でしか機能しない成果主義を取り入れたといえる。今の日本の停滞と混乱は、風土とのミスマッチから生まれている。

 

「人は資源」と「人は経費」の闘い

 「人は資源」として大事にするウィンウィンの経営が、ネッツトヨタ南国の経営方式なのだ。日本で人を大事にする経営をすれば、成功する。人を大事にしないから、多くの日本企業が没落した。

 西洋の成果主義では、人は経費なのだ。経費だから利益確保のためには削減しなくてはならない。まして移民の有色人種は、安い労働の使い捨て消耗品扱いである。ドイツがそれをフル活用して経済を発展させた。勝者独り占めの政策として、EU内関税政策フル活用で、弱者のギリシャは弱者をままに置いて漁夫の利を得た。そのため、ギリシャは貧乏になった。EU内では弱者と強者の関税が同じだから、洪水のようにドイツ車を筆頭に安いコストで作った工業製品が、弱小国家に流れ込む。その結果、自動車産業を筆頭に多くの産業は衰退する。それがギリシャ問題である。

 その昔は、多くの列強がアジア、アフリカに殺到して、植民地分捕り合戦をして、富を欧米に持ち帰り、それを独り占めした。アジアの植民地の住民は、欧米にとって人間ではないのだ。それの後継者が、グローバル経済主義者となって、99%の富を1%の富裕層が独占する世界を作った。

 だから私はドイツ車を絶対に買わないし乗らない。ドイツ車に乗って自慢しているセレブ経営者を軽蔑する。その分、日本の雇用の喪失、日本労働者の賃金抑圧、欧州での移民への差別が増長されるのだ。その中小企業社長のセレブは、世界経済流動の実態も、従業員がどういう目で己を見ているかには、思いを馳せないのだ。

 

和洋で戦闘戦略を切り替え

 私は日本人なので、その日本で共生、無私の世界に生きている。なるべく事を荒立てないようにするのは、日本人としての特性である。だから私は問題が起きても、相手を見てどれだけクレームを付けるかは、相手を観察してから慎重に対応している。

 昔の正義感溢れてエネルギーに満ちていた時は、テクニカルライティングの論理構成、危機管理の思想、倫理観でビジネス戦争を戦っていた。正論で論理的にガンガンと攻めるから、敵(某世界的大手IT企業)の営業マンからは、一目置かれていた。

 最近は悟りの心境になり、戦っても時間の無駄だと思う相手とは、最初から戦いを略する「戦略」に切り替えた。アホな相手と議論しても私だけが疲れるだけで、相手は極楽とんぼモードのままである。それでは私の人生ロスであると悟った。諫言を言われなくなったら、戦ってもらえなくなったら、その人は終わりなのだ。私が、「相手にするだけ無駄」と経営判断をしたのだから。人は言われるうちがハナなのだ。無駄と判断されると、鼻にもかけられない。

 私は、いまでも欧米に旅行等で出かけた時は、ハッキリと自己主張をして過ごす。日本では和の精神で言いたいこともある程度我慢するが、欧米に出かけた時は英語での戦闘態勢である。特にビジネスの場合は、西洋人になりきって行動する。ホテルや空港で問題があれば、西洋人のように、はっきりと「I」を主語にクレームを付ける。そうしないと生きていけないのだ。

 特に仕事で西洋とやりあう場合は、自己主張をしないとやり込められてしまう。私は、欧米ではできるだけそういう会社や組織とは付き合わないようにしている。一流ブランドの飛行機会社やホテル等なら、そういう嫌なことは少ないので、日本人として品格ある行動ができる。

 

マネジメント的視点が鍵

  仕事の最前線にマネジメント的視点をもたらすこと。 

  それ自体が1つのイノベーションである。

 あらゆる生産手段のうち、人的資源ほど効率の悪いものはない。この人的資源の活用に成功したわずかな企業が、生産性と算出量の飛躍的な向上を実現する。人的資源こそ生産性向上の主たる機会である。したがって、今日関心を集めている設備や技術のマネジメントではなく、人材のマネジメントこそが最大の関心事でなければならない。

 しかもわれわれは、人的資源の生産性をもたらす鍵が何であるかを知っている。報酬は手段でない。考え方としてのマネジメントである。仕事と製品のマネジメントで見ること、すなわち、それらのものを全体との関連においてみることである。

P.F.ドラッカー『新しい社会と新しい経営』上田惇生訳 ダイヤモンド社

 

2018-03-24

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