お墓とは生の証し
お釈迦様は、あの世があるとは言われなかった。ただ「死ぬまで精進せよ」とだけ言われた。お釈迦様は最期まで精進の旅を続けられて、旅の途中で涅槃に逝かれた。
お墓の起源
太古からお墓は存在した。それが動物と人間を分ける印である。太古の時代は、人間が死後に化けて出てくるのが恐ろしく、化けて出てこないように足や腕を折って埋葬した形跡も見受けられる。それだけ死を恐れたのだろう。
人は弱い存在で、何か目に見える形に手を合わせ拝みたいようだ。空中に手を合わせるのでは、掴みどころがない。その拝む対象を形にしたのが仏像であり、お墓ではないか。その故人を偲ぶ形を表す形態として、お墓が存在すると思う。だからそのお墓には、祭る人の意思が明確に表われる。
文は人なりと言うように、お墓に建立した人の人格や家風が表われる。祖先を大事にする家は、それに見合ったお墓が建立される。
自家のお墓の再建
2015年、ご縁があり100年は持つと保証されたお墓を再建した。埋葬された人の骨は80年で土に帰るという。お骨を大自然の大地に返す装置がお墓なのだ。それを知って、ご先祖様が土に帰るまで安心して眠りに付けるようなお墓にした。大地震が起きてもお墓が倒壊しないように、竿、本体、足が一体の墓石構成とした。お墓のベースも一枚板の石芝台とした。それは、芝台に雑草が生えないようにして、メンテナンスフリーにする目的もあった。
死の意識と生への希望
人生はお墓を作ってからが本当に人生だと思うようになった。ミッチェル女史も『風と共に去りぬ』のラストシーンを書いてから、他の章を書き始めた。お墓に入る自分を想像して、お墓の格や先に入っているご先祖様に対して、恥ずかしくない人生を送りたいと思う。お墓建立は、自分の人生への決意表明なのだ。
お墓を意識することは、当然、死を明確に意識することだ。死を意識するからこそ、今の生が明確に浮かび上がる。疎かにはできないご先祖から頂いた命である。近直の縁者だけでも、赤い8本の糸で繋がった吾が命。その糸が一本でも切れていれば、この世には存在し得ない吾が命である。そんな大事な命だからこそ、これからの命を日々輝かせる精進は、ご先祖への恩返しなのだ。
夢が己の墓標
自分の夢や人生目標が、死後に残る墓標である。それが自分の足跡を残すお墓と考えると、生きていくうえで励みになる。頑張ってその夢が実現できれば、それは人生の生きた証となり、金字塔となる。二度とない人生、己が建てる墓標は立派にすべし。
戒名
今度、戒名を授けてもらう計画である。戒名は生前に導師より付けてもらうのが正式だと今回初めて知った。戒名とは、導師が弟子のために来世で自分用の寺院を建て(院号)、そこで修行に精進するために授ける名前である。お葬式のときに戒名を付けるのは、緊急的、簡易的な処置である。人生は知らないことばかりである。65にして64の非を知るである。
各界ごとの生老病死
生物の死だけが、死ではない。どんなものにも生があり死がある。学校での界での生が入学であり、死が卒業である。学校での通信簿や卒業証書が墓標である。会社での生が入社であり、死が定年である。ある会社に就職すれば、必ず40年後に、定年という会社人生の死が訪れる。その期間に世に対して仕事で成し遂げたことが己の墓標である。その墓標を誇れるものにして、会社を去りたいもの。その後に、第2、第3の人生があり、それぞれに生があり死があり、その期間の精進の程度によって相応の墓標が残る。少しでも世のためになる墓標を残してその界に実績を残し、その界を去りたいもの。
2017-12-19
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
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