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2017年11月15日 (水)

佛師の目指すもの(改定)

己が作る佛様(仕事)に、魂は有りや無しや

  2017年11月9日と14日、大佛師松本明慶佛像彫刻展で松本明慶師が語られた佛像造りの持論を以下に記載します。以下「私」は明慶師のことです。

 佛像はたんなる置物ではない。まして投資対象の美術品でもない。その佛像にそこに人格(佛格?)を感じて、思わず手を合わせてしまう何かが無ければ、単なる置物でしかない。

 明治時代の高名な佛師が作った布袋さんを見ても(図録で説明された)、そこに知性や品格が感じられなく、手を合わせて何か頼み事をしたくはならない。布袋さんを作るにしても、そのお顔をみれば、思わず相談をしたくなる、手を合わせたくなる、拝みたくなる何かが無ければならない。布袋さんが座って足裏を見せている足裏をコチョコチョとすれば、その布袋さんがくすぐったくて、動くかのような佛像造りを、私は目指している。(著者がその目で見れば、展示されている布袋さんのお顔は品があり賢そうなお顔である。)

 その観点でその高名な佛師が作った布袋さんを見ると、その何かがない。単に高名だからという目で、佛像を見ると、それは投資の対象の美術品を見ているに過ぎない。

 

佛格の向上

 私(明慶)は、誰が見ても人から崇めれるような人格(佛格)の佛像造りを目指してきた。それは私の師匠から教えられたこと。

 5年前に彫った佛像と今の佛像を見て、そこに佛像の人格に、成長の跡が見えなければ、己の成長が止まっているのだ。そういう目で己の作品を見ないと、人が手を合わせてくれる佛像は彫れない。そのように、日々肝に銘じて私(明慶)は佛像造りに精進しているし、弟子たちにも指導している。

 明治時代の高名な佛師が作った布袋さんを見ても、肩幅の狭さから見て頭の大きさが異様に大きくて、そのままでは頭が支えられない体の骨格のバランスで佛像が作られている。足の大きさも、体の大きさからみてアンバランスである。彫刻は絵と違い、どこから見ても破綻のない形にしないと成り立たない。そこに彫刻の難しさがある。

 布袋さんの目を見ても、瞳の部分に穴をあけて、そう見えるようにしているだけである。松本工房が作る佛様は、目の彩色だけでも専門の佛彩色師がいる。そこには写実的な表現ではなく、「写質」的な表現を目指した佛像造りがある。運慶の佛像でも水晶の瞳を入れた工夫で、リアリティを増す技法を編み出している。佛像を写実的に作っても、それには有難味がない。私は写実的ではなく、写質的に作ることを心がけている。

 観音様を見ても、額の狭い貧相な顔立ちの佛様では拝む気になれない。そこに写実的ではあるが、魂の写質感がないからだ。思わず手を合わせたくなる神々しい質感が必要である。

 

布袋

 布袋は中国唐代末に出現した四明山の僧で、名は契此。禅画によく登場する。よく太ったお体に常に杖と袋を持っている。袋の中には財宝が入っており、人々に分かち与えたという。その袋の名は「堪忍袋」である。だから、布袋はその「堪忍袋」の口元を固く握りしめている。財宝の入った堪忍袋を破らなければ、人生のお宝は散逸しない。人生の財宝とは外にあるのでなく、己の心の中に存在する。堪忍袋の口を緩めるから金が貯まらない。ご縁が来ない。その布袋の前に尺杖が置かれている。それは人間界と佛の世界を区切る結界である。俗世間の意識のままでは福はやってこない。その尺杖が、布袋さんの前にあるかないかでも、その佛像の印象ががらりと変わる。自分を戒める結界(戒め)を持つかどうかで、己の人生は劇的に変わる。布袋は弥勒菩薩が下生するまで、その分身として市井に出て放浪し、悠々自適に各地をさ迷い歩くと言われている。その布袋を、佛格の高い佛像として表現したのが図1の布袋(明慶師作)である。

 図1 布袋 『慈悲 大佛師松本明慶作品集』小学館刊より

 

カエルの人生

 私(明慶)は、カエルを彫るときはカエルの人生まで考えて、カエルを彫刻する。カエルの生態、骨格、カエルの各器官まで調べて、彫刻する。その為に、松本工房の庭には、カエルの生態が観察ように蛙を飼っている。カエルの彫刻に、持てる技の全てを投入してフラグシップの作品を修行として作る。その修練があって、本物の佛像を作る腕が磨ける。(だから小さなカエルの彫刻作品のお値段が、小型自動車一台分となる)

 

自分が作る佛様

 以上の明慶師の話は、佛師だけの話ではないと感じた。我々が仕事で作り出す製品にも魂が宿る。それは工業製品だけでなく、プロジェクトの生成物、教育での形、政治、経営、農産物、商売の形、文学、音楽での創造物の全てに当てはまると思う。トイレ掃除にも、仕上がったトイレの姿に魂が宿る。どれだけ、その佛像(仕事)つくりに、己の人格を上げて取り組むかである。人格の低い人間からは、低いレベルの仕事しか生まれない。佛像造りは、自分つくりである。そのために自分の人格を磨かねばならぬ。

 

私の佛像作り

 私は技術者として長年、工作機械の研究開発に携わってきたが、次の製品は、今の製品よりもより高い性能、付加価値を与えるべく心血を注いできたと自負できる。また技術管理部で担当した技術者教育の仕事も、形は見えないがそのカリキュラムや教材、教え方に、去年よりも今年はどんな付加価値を与えて、若い技術者に、先人が残した技を伝えられかに心魂を注いできたと自負できる。教育のその形は見えないが、その教育としてのソフトを作成して、それを磨き上げるのが私の佛像作りであった。その出来上がった佛像が、教育に関心のない金儲け至上主義の上司に破壊されたのは悲しい過去である。経営者は、教育は大事だと口では言うが、実行をする経営者は稀であるのが、現代経営の悲劇である。

 現代の工業製品の最先端を行くソフト制作でも、例えば会計ソフトでも、いくらソフト作成技量が優れていても、会計学が分からなければ、使い物になるソフトは作れない。その仕事の基本がない職人や事務職員、お役人が世の中の仕事に質を落としている。

 今は、自分が作った佛像を、誰にも壊されないように、己が己の戒めを守り、自分を教育するシステムを構築して、自分が佛像となるように精進をしている。

 

行政の佛づくり

 最高学府を出た行政の長が取り仕切る、中央政界、地方都市行政で、住民無視、放漫経営、利己主義経営、お役人根性の仕事が最近目につくのが嘆かわしい。日本の政治でも野党が批判だけで提案が無く、己が醜態を見せる野党野合、その党首のスキャンダルだらけでは日本が良くなるはずがない。政治が作る社会は、佛像造りと同じである。そこにどれだけの魂を込めて政治をするか。どこから見ても破綻のない治世に仕上げるかが問われる。大垣市のように国として治めるべき治水を放置して、市の経済の血路である道を頻繁に水没さえる愚政を62年間も続けるのは、罪悪である。市民の命の軽視イベントをいくら開催して盛況でも、死傷事故が起こる危険性が高いし、実際にドローン墜落人身事故が起きている。

 いくら東大を出た長を頂いても、市の行政として、やるべきことを実行しないのは、形を作って魂入れずの仏像造りと同じである。ご先祖の霊前での神事で、居眠りのような姿をみせるのは、不敬も甚だしい。頭はいいが、知恵と徳がない長を頂くと、市民が不幸になり、市が寂れていく。現実に寂れてしまった。それでいて市庁舎だけは立派になっていく。世も末である。

 

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2017-11-15

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

図1の布袋様の写真掲載は、松本明慶師の許可を得ています。

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