« 水を治める者は国を治める | メイン | 大垣・元気ハツラツ市 総括 »

2017年10月 5日 (木)

未来を見据えて

 部下を持つ長に対する講話は、未来に希望をつなぐ話にしたい。しかし往々にして大学教授の話にはそれがない。俺が何でも知っている、教えてやっている、と上から視線の話しが多い。

 大学教授は学生相手に話している習慣なのか、教室内で己を批判する人間がいないので、往々にして独善的になりやすい。それ故、時間の大事さを知らない。そんな教授が歳をとり経営者の前で話をすると、皆自分より年下なので、いつもの自説の押し売りの地が出てしまう。そこには未来につなぐ話しではなく、大昔の自分の成功体験なのだ。それは現代では陳腐化していて、何を今更という感じである。それでその話しから、我々はどういう方向に進めばいいのか、という話は全くない。

 

過去の自慢話

 松下幸之助経営塾のOB会が2015年4月24日、高野山で開催され、開眼後の四天王像を撮影する目的も兼ねて泊り込みで高野山にでかけた。その時のプログラムの一つである元教授の講話が、上記の類であった。氏は経営の神様から認められて企画課長として会社時代は腕をふるったようだが、50年前の成功体験を自慢話からは、得るものが無かった。それで我々は今何をすれば良いのか、がなかった。在るのは過去の事件の情報(知識)と自慢話で、そこから得られた智慧は何か、どうすれば智慧がつくのかの未来志向の話は無い。

 

時間泥棒

 参加者の予定を考えて講話を30分繰り上げるように事務局は段取りしたのだが、講話を時間内に纏められなかった講師は、「30分早く始めたのだから、時間延長してもいいだろう」と終了時間が来ても一方的に話を続けた。時間は命である。それも聴衆が30名ほど参加した講演会である。聴講の社長達の時間給は1万円ではきかない。単純計算で数十万円の損害である。その人達の予約した飛行機や新幹線の乗車に大きな影響が出ることには気が回らない。そんな考えの人の話しは、聞く価値の無いと思った。

 最後に司会者も「久しぶりに○○節を聞きました」と嫌味タップリのシメをしたが、本人は全く気がついていない。人皆我師である。この講師から晩年を汚してはならないという教えを頂いた。人間は最期まで謙虚でなければならない。経営の神様の松下幸之助翁も、最期まで謙虚であったのに。弟子が節穴の目ではいかんとも致し方ない。

 

最高学府を出て頭は良くても智慧と耳がない

 大垣・元気ハツラツ市も、学歴が高い人が頭だけで考えた案を実行するので、少しも上手くいかない。年老いれば駿馬も騾馬に劣る。市民税を無為に使って他市が潤い、大垣の衰退の速度を加速させている。商店街がその被害をこうむり、ますます衰退している。プライドのお高い市長はそれを認めず、回りのヒラメも本当の民意を伝えず、裸の王様になっている。何事も、実行は3分、目で見て3分、耳からの4分の要素が大事である。多くの耳に痛い意見を聞いて、それを反映して初めて物事がうまくいく。それに耳を塞いでいるのが、大垣駅前商店街組合、大垣行政、大垣市長である。すばらしい反面教師役を務めてくれている。一冊の「大垣市政 経営の失敗」という本が書ける経営の題材を提供してくれている。

 

増長天のトンボと広目天のセミ

 松本明慶先生による修復、新造の四天王像は2015年4月2日に開眼法要をされて、今後千年先を見据えて訪れる衆生の前にそびえ立つ。四天王は未来を見据え過去を振り返らない。過去を振り返る愚か者とは死天王である。狭い視野でしか観ず、慢心の心では、見れども観えず。増長天の胸のトンボは、過去を振り返らず、後ろ向きには飛ばない決意の象徴である。広目天の胸にとまるセミは、その声が遠くまで響く佛の声の象徴である。それに耳をふさいでは、成仏できない。松本明慶師は従来の伝統仏像にはない、トンボと蝉を創作した。松本明慶師の仏像は多くのことを教えてくれる。

 

宇宙根源の理

 最高学府を出たという過去の栄光にしがみ付く限り、未来は変えられない。そのこだわりが、未来への飛躍の足を引っ張るのだ。声なき仏の経は、自然界に満ちている。その佛の声を素直な心で聴かないと、成仏はできない。松下幸之助翁は「宇宙根源の理にあった経営をせよ」と言った。理に合わないことは「無理」なのだ。今の経済学者や経営者や行政の長は、頭だけで考えた、理に合わない無理なことばかりしているから、日本経済がデフレから脱却できない。経済学者は、理に合わない理論ばかりを政府に進言して、現実の景気が少しも良くならない。それが正しければ、経済学者は、全員大金持ちになるはずだ。経済学者は貧乏である。その高い給与が税金から支払われている。経済学者は「理論はあっている。現在の経済が間違っている」と放言するのでは、仏さまも救いようがない。

 

自分を捨てよ

 「自分は何者なのか」と道元禅師は問い続け、その著書の中で「朝、人の道を聞くことができれば、その日の夜に死んでもかまわない。仏教の修行とはまさにこれだ」、「自分とは、すべての存在・環境の中の一部だ」と述べる。自分という一個の存在だけの意味はない。それに気づいたとき、自分へのこだわりは消える。仏教の修行とは、この「自分とは全体の中の一部分」を悟るのが目的である。道元禅師の思想は、「自我を捨てよ」という教えである。

 最高学府の学歴にこだわる限り、自我を捨てられず、利己主義の世界に埋没する。周りのヒラメがそれを増長する。それが今の大垣市長の姿勢である。世に跋扈するグローバル経済主義者と同じ思想である。人のことなど、知ったことではない、である。他人の意見は聞かないのにはワケがある。

 

下の写真は高野山中門の増長天の胸のトンボと広目天の胸の蝉。松本明慶大佛師作。2015年10月8日撮影。

書は、馬場恵峰師書 2017年夏。オリジナルの文書を見て、希望のサイズで新規に揮毫をしていただいた。

1039a1192

2039a1200

3p1030160

2017-10-05

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

コメント

コメントを投稿